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石川達三(1905~1985)

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石川 達三(いしかわ たつぞう)

作家
1905年(明治38年)〜1985年(昭和60年)

1905年(明治38年)、秋田県平鹿郡横手町(現在の横手市)に生まれる。父の転勤や転職に伴って、1908年(明治41年)に秋田市楢山本新町上丁、1912年(明治45年)に東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区)に、同年9月岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)に移った。1914年(大正3年)、母を亡くし、東京に住む叔父の家に預けられたが、1915年(大正4年)に父が再婚し、後妻に育てられる。小学校を首席で卒業し、東京府立一中を受験したが不合格で、高等小学校に1年通学。1919年(大正8年)、父が教頭をしていた岡山県立高梁中学校に入学した。3年の時、父の転任に伴い、岡山市私立関西中学校4年に編入し卒業。第六高等学校を受験するも不合格となり、1年間の受験生活の間に、島崎藤村、ゾラ、アナトール・フランスなどの作品を読む。1925年(大正14年)、上京して早稲田大学第二高等学院に入学。級友間の同人誌『薔薇盗人』に小説を書いたり、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に応募したり、『山陽新報』に持ち込んだりする。1926年(大正15年)、『山陽新報』に「寂しかったイエスの死」が掲載され、これが活字になった最初の作品となる。この頃、経済的に行き詰り、学業を断念してフィリピンか満洲に縁故を頼って渡ろうとしていたところ、同年『大阪朝日新聞』に「幸福」が当選し200円の賞金が入ったので、1927年(昭和2年)早稲田大学文学部英文科に進学。しかし、学資が続かず1年で中退。国民時論社に就職し、電気業界誌『国民時論』の編集に携わる。生活上の基盤を得て、いよいよ小説家になる志を高め、各社に創作を持ち込むも上手くいかなかった。1930年(昭和5年)3月、政府補助単独移民として移民船でブラジルに渡航。これは、移民取扱会社南洋興業に兄の友人が勤めていた縁によるもので、本来は夫婦や家族持ちでなければ渡航できないところ特別に許可を得た。渡航に際して石川は、旅費の足しを得るため、帰国後に体験記のようなものを書く約束で国民持論社を一旦退職した形をとり、退職金600円を手にした。渡航後は米良功所有のサント・アントニオ農場に約1か月、のち「上地旅館」を止宿とし、日本人農場に滞在した。8月に帰国。1931年(昭和6年)6月、『新早稲田文学』の同人となり、幾つかの短篇を発表した。1935年(昭和10年)4月、ブラジルの農場での体験を元に、移民を余儀なくされた人々の惨めさを描いた「蒼氓」を同人誌『星座』創刊号に発表。素材の新しさとリアリズムの本流をゆく堅実な手法とで選考委員に認められ、8月には第1回芥川賞を受賞した。次いで、水道用貯水池建設のために湖底に沈む小河内村を取材し、1937年(昭和12年)9月に「日蔭の村」を『新潮』に発表。「調べた芸術」として文壇で話題を呼び、ルポルタージュ的手法を用いた一種の社会小説として評価された。12月、中央公論の特派員として日中戦争の戦場中支方面に出発。南京事件から数週間後の南京に翌年1月まで滞在し、他に上海周辺を歩いた。この時の見聞をもとにして、『中央公論』1938年(昭和13年)3月号に「生きてゐる兵隊」を発表。しかし、同号は新聞紙法41条違反容疑で即日発禁処分となり、石川は起訴され、禁錮4か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。戦前の日本文学史に残る筆禍事件となり、その挫折感から家庭内部に主題を限定。恋愛と結婚の理想を求めた『結婚の生態』がベストセラーとなり、その後『智慧の青草』(1939年)『転落の詩集』(1940年)『三代の矜持』(1940年)など、女性ものと名付けられる一系列を拓いて、人気作家の座を確実なものとした。『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』連載の『母系家族』以降は新聞小説に進出。1942年(昭和17年)5月、南洋諸島を旅行し、東南アジアを取材。翌年に『赤虫島日誌』などを発表した。同年12月、太平洋戦争が開戦すると間もなく海軍報道班員として徴用され、サイゴンに派遣した。戦後も新聞小説を中心に活躍。極めて幅のある社会感覚を盛り込み、時代風潮を鋭敏に反映させた作品で、獅子文六、石坂洋次郎らと共に全盛期の新聞小説の筆頭に挙げられる人気を博し、またその作風と時に新奇な手法を用いることで異端児とも目された。戦中からの女性ものは、風俗小説と結びつき、失業軍人を中心に世相を諷刺した「望みなきに非ず」は、1947年(昭和22年)7月に『読売新聞』で連載されて評判を呼んだ。以後も、女の幸せを追及した『幸福の限界』(1948年)、美しい夫婦愛を描く『泥にまみれて』(1949年)、新旧世代の悲喜劇『青色革命』(1952-53年)、現代人の絶望と破滅を描いた『悪の愉しさ』(1953年)、エゴイストたちの醜さを描いた『自分の穴の中で』(1954-55年)、中年男の浮気を扱った『四十八歳の抵抗』(1956年)、現代人の充実した生を追求した『充たされた生活』(1961年)、結婚の意義を扱った『僕たちの失敗』(1961年)、愛情のあり方を描いた『稚くて愛を知らず』(1964年)、エゴイズムの悲劇を描いた『青春の蹉跌』(1968年)など、社会における個人の生活、愛、結婚、生き方などテーマにした話題作を次々と発表。長きに渡って人気を保ち、書名の幾つかはそのまま流行語にもなった。また、「調べた芸術」の手法を駆使して社会小説の大作にも取り組み、その本領を発揮。社会的正義感とヒューマニズムに立脚した作品は、記録的手法と相まって多くの読者を獲得し、大きな反響を呼んだ。特に、横浜事件を材に戦中戦後の自由主義者の受難を描いた『風にそよぐ葦』(1949-51年)や、佐教組事件を材に政治と教育の確執を描いて大ベストセラーとなった『人間の壁』(1957-59年)などは社会小説の名作として高く評価され、代表作となった。また、資本家の横暴を描いた『傷だらけの山河』(1964年)や、九頭竜川ダム汚職事件を材に政界の腐敗を告発した『金環蝕』(1966年)も話題を呼んだ。これらの成果により、1969年(昭和44年)に菊池寛賞を受賞。毎日新聞社が毎年実施する読書世論調査では、戦後から1970年代末まで「好きな著者」の上位常連であった。他にも、純文学系統の裁判物『神坂四郎の犯罪』(1949年)や、冒険的な作品『最後の共和国』(1952年)などがあり、ここにも資質と社会性が鮮やかに表出されている。また、『私ひとりの私』(1965年)は60年の生涯を振り返って、母への愛情や無責任な父への批判、功利的な叔父夫婦の姿などを通して、自己の幼少期を回想し、文藝春秋読者賞を受賞した。昭和30年代頃からは、社会的活動が活発となり、日本文芸家協会理事長(1952年-56年)、A・A作家会議東京大会団長(1961年)、日本文芸著作権保護同盟会長、日本ペンクラブ第7代会長(1975年-77年)などの要職を歴任。大衆の支持を背景に社会的発言も増え、その内容はしばしば論壇・文壇に論議をもたらした。1956年(昭和31年)、アジア連帯文化使節団団長として世界各国を歴訪した後に、資本主義社会の過剰な「自由」を批判。翌年には川崎長太郎や谷崎潤一郎らの作品を猥褻だとして行き過ぎた言論の自由を非難した。1971年(昭和46年)、第65回芥川賞が受賞作なしに終わったことに際して「候補作八篇のうち五篇までは、何を書こうとしているのか、何が言いたいのか、少しもはっきりしない。」「小説がノイローゼによって書かれるような傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつれて、もはや私が芥川賞の選に当るべき時期は過ぎたと思った。」「年齢的にはずれがあるけれど、せめて私にも解らせる程度の小説を書かなくては、一般読者にまともに理解されるはずはない」などと述べて選考委員を辞任。新人世代の創作を問題視した。この若い人たちの作品がわからなくなったという発言は話題となり、論議をもたらした。1975年(昭和50年)の日本ペンクラブ会長就任時には、「言論の自由には絶対に譲れぬ自由と、譲歩できる自由の二種類あり、ポルノなどは後者に属する」という「二つの自由」発言が波紋を呼び、五木寛之理事ら改革派の若手会員からは抗議を受けた。特に野坂昭如理事とは白熱の論争をして一歩も譲らず、ペンクラブは翌年まで混乱が続いた。結局、役員会の裁断で石川は事実上の撤回を迫られ、混乱は一旦収拾したが、石川は会長再任を辞退。だが後任が決まらず、突如ペンクラブを退会して会長を退いた。1983年(昭和58年)頃から心臓を悪くするなど晩年は病気がちになり、1985年(昭和60年)1月21日、持病の胃潰瘍が悪化して吐血し東京共済病院に搬送。その後肺炎を併発し、1月31日の朝に死去。享年79。


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ブラジル移民を題材にした『蒼氓』で第1回の芥川賞を受賞した石川達三。時に社会派の作家として、時に恋愛と結婚の理想を作品に求めた作家として、戦前から戦後を通じて意欲作を次々に発表。戦時中は『生きてゐる兵隊』が反戦的であると発禁処分を受け、戦後は私小説や観念小説の否定等の独断的な表現と態度で波紋を呼んだが、彼はどんな時でも自らの信念を貫き、自身?の思う正義を果敢に求め続けた。そんな石川を、文芸評論家の奥野健男は「晩年は社会良識を代表するという立場が逆にガンコとも受け取られたようだ」と評したが、まさに時代遅れの堅物という評価を受ける形になってしまっていたと思う。「小説」に対する律義なまでの良心を貫いた石川達三の墓は、神奈川県平塚市の平塚霊園 那由侘の郷にある。長らく、墓は東京都世田谷区の九品仏浄真寺にあったが、数年前にこの地に改葬されたようである。墓は、九品仏浄真寺と同じ造りで「石川家」、左下に小さく「達三・代志子」の自署が刻まれている。墓誌は左側に建つ。

by oku-taka | 2021-09-30 22:59 | 文学者 | Comments(0)