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北條秀司(1902~1996)

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北條 秀司(ほうじょう ひでじ)

劇作家
1902年(明治35年)〜1996年(平成8年)

1902年(明治35年)、大阪府大阪市西区西長堀に生まれる。本名は、飯野 秀二(いいの ひでじ)。幼い頃から両親の影響で文楽や歌舞伎に親しんで育ち、それが劇作家になる素地となった。大阪市立甲種商業学校(現在の大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進学。在学中の1919年(大正8年)、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。その後、大阪市立甲種商業学校の本科には進まず、また生家の父材木商を継ぐのを嫌って、1920年(大正9年)に日本電力へ入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業した。1926年(大正15年)、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社を拒否。同年、東京建設所に転任となり上京。1928年(昭和3年)、日本電力と小田原電気鉄道の合併で、新たに創設された箱根登山鉄道株式会社へ出向し、小田原に居住する。同社では事業課長として強羅ホテルの建設などを担当する。1933年(昭和8年)、劇作家を志望して岡本綺堂に師事。「北條秀司」の筆名は綺堂が直々に命名したもので、小田原の戦国大名北条氏にちなんだものである。その後、綺堂が主催する月刊誌『舞台』に参加。1937年(昭和12年)、『舞台』に発表した戯曲『表彰式前後』が新国劇で上演されて劇壇デビュー。会社員兼業の劇作家となる。1939年(昭和14)、岡本綺堂の死去を機会に箱根登山鉄道を退社。劇作家専業として上京し、1940年(昭和15年)長谷川伸に師事。長谷川主催の脚本研究会「二十六日会」に参加した。同年、戯曲集『閣下』で新潮社文藝賞を受賞。1944年(昭和19年)、日本文学報国会の総務部長に就任。同年、南京で行われた第3回大東亜文学者大会に日本側の責任者として参加した。1947年(昭和22年)、新国劇で演出も担当した辰巳柳太郎主演の『王将』が大ヒット。2作の続編を執筆し、度々映画化もされた。その後も『文楽』(1948年)、『狐と笛吹き』(1952年)、『井伊大老』(1953年)、『太夫さん』(1955年)、『建礼門院』(1969年)など、歌舞伎、新派、新国劇に秀作を書き、商業演劇作家の第一人者となった。また、『末摘花』『浮舟』『藤壺』など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれている。 1951年(昭和26年)、『霧の音』で毎日演劇賞を受賞。同年、伊馬春部、池波正太郎、小沢不二夫、菊田一夫、水木洋子らと共に、大劇場の劇作家の親睦会「鬼の会」を創設。1960年(昭和35年)、東宝のプロデューサー池野満の企画により[14]、1960年には、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成。1964年(昭和39年)、日本演劇協会の会長に就任し、29年にわたって務める。また、『北條秀司戯曲選集』(全8巻)で芸術選奨文部大臣賞、翌年には読売文学賞の戯曲賞を受賞。1973年(昭和48年)演劇協会の創始者として演劇文化に貢献したことで菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49年)、『春日局』で大谷竹次郎賞を受賞。1981年(昭和56年)、国際演劇協会日本センター会長に就任。1987年(昭和62年)、文化功労者に選出。晩年は奇祭に熱中し、奇祭に関連する著書を多数執筆した。また、亡くなる直前は自宅に篭って大杉栄、神近市子らを描いた長編の新作に取り組んでいたが、1996年(平成8年)5月19日午後1時10分、肝不全のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年93。


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日本演劇界の大御所として長年君臨し続けた北條秀司。新国劇をはじめ、新派、東宝、歌舞伎など幅広いジャンルの作品を担当し、93歳で亡くなるまでに創作した戯曲の数は220編を超える。また、自ら書いた脚本は自ら演出するという姿勢を終生貫き、 商業演劇の第一人者として高く評価されている。芝居に対する厳しい姿勢は、親友である劇作家の菊田一夫と並んで「天皇」と呼ばれ、時に「強情秀司」と揶揄されることもあった。十七代目中村勘三郎と山田五十鈴を「性格の激しい連中」と呼べるのは、後にも先にも「天皇」と恐れられた北條秀司ただ一人だけであろうと思う。完璧主義者と言われながらも、自らの理想とした芝居の実現に情熱を傾け続けた北條秀司の墓は、神奈川県鎌倉市の龍宝寺にある。墓には、直筆で「北條秀司」「北天に帰る」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2021-09-12 14:57 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)