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范文雀(1948~2002)

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范 文雀(はん ぶんじゃく)

女優
1948年(昭和23年)〜2002年(平成14年)

1948年(昭和23年)、東京都中野区に生まれる。国籍は中国台湾であったが、両親も日本育ちであり、中国語は出来なかった。父親は台湾人の音楽家であったが、范が5歳の時に帰国してしまい、残された文雀は母、兄とともに広島県広島市の祖父母宅へ身を寄せることとなった。祖父母は広島駅前で「胡蝶園」という中華料理店を経営していたが、この祖父は実の祖父ではなく、中国の家での使用人が祖母の愛人として同居しているものであり、実質的な家長は祖母であった。この祖母に溺愛された文雀だけが広島市栄橋の本宅で贅沢に育てられ、母と兄、さらに3年後に帰宅した父はみすぼらしい店の従業員寮の一部屋で暮らすこととなった。広島ノートルダム清心中学校を卒業後、東京に移った両親を追って家出。文雀は、最後まで祖母には馴染めなかったという。上京後は清泉女子大学英文別科に入学。在学中の1968年(昭和43年)に劇団春の鳥へ入団。同年、テレビ番組『特別機動捜査隊』(テレビ朝日)に端役で出演し、正式に女優デビューを果たす。1969年(昭和44年)、『プレイガール』出演時に芸名を「ハン・ザ・摩耶」としたが、程なくして本名に戻している。同年、清泉女子大学英文別科を卒業し、上智大学外国語学部比較文化学科に入学したが、1970年(昭和45年)に中退。同年、TBSのドラマ『サインはV』に出演。主演の岡田可愛とともにアタッカーコンビを組んで活躍するジュン・サンダース役として、ドーランで肌を黒く見せて演じた。エリザベス・サンダースホームで育てられた悲運の混血アタッカーとして、繊細な心を持ちながら表面的には突っ張った部分を持つジュンの役柄は多くの視聴者の共感を呼び、志半ばで骨肉腫で倒れるストーリー展開に対しては、全国のファンから助命嘆願が数多く届くほどだった。続く、スチュワーデスを描いたドラマ『アテンションプリーズ』にも田村早苗役で出演。ドラマのヒットとともに范の人気も不動のものとなった。人気絶頂期の1973年(昭和48年)には、『2丁目3番地』(日本テレビ)で共演した寺尾聰と結婚。一時芸能界を引退したものの、1974年(昭和49年)には離婚し、芸能界に復帰した。エキゾチックな風貌と演技力が評価され、梶芽衣子主演の映画『野良猫ロック』シリーズを始め、『服部半蔵 影の軍団』『プレイガール』『Gメン'75』などの人気テレビシリーズに出演。30歳からは舞台に進出し、木村功との二人芝居『ふたりでシーソー』で初舞台。以降、『リチャード3世』『朝・江戸の酔醒』『泣き虫なまいき石川啄木』などに出演。1987年(昭和62年)には『やけたトタン屋根の上の猫』に主演した。1993年(平成5年)から放送された海外ドラマ『ドクタークイン大草原の女医物語』(NHK)では、19世紀後半のアメリカ西部の舞台に、偏見や差別といった障害に屈することなく信念を貫き、医療に従事する女医ミケーラ・クイン役を主演したジェーン・シーモアの吹き替えを担当した。1998年(平成10年)頃、腋のリンパ節から悪性リンパ腫との診断を受ける。半年間に及ぶ入院治療などによって小康が得られていたが、2002年(平成14年)10月中旬から体調が悪化。11月5日午後1時38分、心不全のため東京都千代田区の病院で死去。享年54。


范文雀(1948~2002)_f0368298_14365757.jpg

1970年代のテレビドラマ界においてクールビューティーの代表格として活躍した范文雀。TBSの『サインはV』で、児童養護施設で育てられた悲運の混血アタッカー「ジュン・サンダース」役を演じてたちまち大ブレイク。繊細ながら表面的には突っ張るジュンの役柄は視聴者の共感を呼び、志半ばで骨肉腫によって倒れた際は、助命嘆願の手紙が寄せられるほど、この役でその人気を不動のものとした。人に決して媚びず、気に入らなければ大物男優との共演も辞退するなど、常に高みを目指すストイックな女優であったが、私生活では台湾籍の両親に生まれながら祖母と祖母の愛人によって育てられ、寺尾聰との結婚生活も短期間で破綻と波瀾万丈の生涯を送った。ドラマ同様に若くして病に倒れ、立木大和のチームで最初の鬼籍入りとなってしまった范文雀の墓は、神奈川県三浦市の三浦霊園にある。洋型の墓には「THAT'S YOUR STAGE,DEAREST REST IN PEACE」とあり、屍櫃部分に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2021-09-04 14:40 | 俳優・女優 | Comments(0)