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加藤博一(1951~2008)

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加藤 博一(かとう ひろかず)

プロ野球選手
1951年(昭和26年)〜2008年(平成20年)

1951年(昭和26年)、佐賀県多久市に生まれる。県立多久高等学校に入学後、野球を始めるとその才能ですぐに頭角を現し、この頃はスラッガーとして鳴らし、多久工業高校に隣接していた警察署では加藤が放つ打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、後に「加藤ネット」と称された。また、足の速さを買われ、地元の駅伝大会に陸上部の助っ人として出場した事がある。1969年(昭和44年)、野球の腕を見込まれ、国士舘大学や社会人野球チームから声がかかっていたが、加藤は地元球団の西鉄ライオンズに入団を希望。当時の西鉄は黒い霧事件の真っ只中で選手数が絶対的に少なく、一人でも多くの選手を獲得したいという思いからテスト入団選手も多く採用。その流れに乗った加藤も俊足を買われてテストに合格し、この年のドラフト会議でドラフト外指名を受けて入団を果たした。入団後は伊藤光四郎二軍打撃コーチに「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言われ、スイッチヒッターに転向。自分の物にするため日常でも左利きの人のように左手を使うなど必死に努力した。また、当時の給料は5万円であったため、オフシーズンになると靴の配送・飲食店の厨房・鮮魚店勤務などアルバイトをして生計を立てた。1974年(昭和49年)、打率.359でウエスタン・リーグの首位打者となったが、公式戦出場は1972年(昭和47年)の3試合にとどまり、6年間でわずか1打席しかチャンスを貰えなかった。1976年(昭和51年)、ファームに甘んじていたが、ファームの阪神戦(甲子園球場)での活躍を見た吉田義男監督が獲得に動き、鈴木照雄・五月女豊との2対2の交換トレードで、片岡新之介と共に阪神タイガースへ移籍。移籍後も二軍暮らしが続いたが、この年と1977年(昭和52年)の2年連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得した。1979年(昭和54年)からは「つちのこバット」を使用するようになり、阪神と因縁のある江川卓に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打ったものであり、1980年(昭和55年)も含めて江川から3本の本塁打を放っている。この年より就任したドン・ブレイザー監督にそのガッツを買われてレギュラーに定着し、打率.314で打率ベストテンの5位に入ると共に、高橋慶彦(広島)と盗塁王争いを演じ、阪神から吉田義男以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した。一方、この年のオフにテレビ番組でピンクレディーのものまねをして大人気となり、翌年はシャネルズのものまねを黒塗りでやるなどタレント事務所からも目を付けられる存在となった。同年のファン感謝デーでは、福間納や似鳥功と共にイモ欽トリオの形態模写を披露し、阪神ファンの人気も獲得した。1983年(昭和58年)、野村収との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。移籍は当時の安藤統男監督からゴルフ場で告げられたという。「ダメでも、いずれ阪神に戻す」と言われたが、「その時にはもう(安藤が)監督でないかもしれないからその保証はないでしょう」と反論した。移籍初年度は故障にも見舞われて80試合に出場したのみで、打席も同じ80打席のみで終わる。しかし、故障が癒えた1984年(昭和59年)には2番打者に定着。1985年(昭和60年)、大洋の新監督として近藤貞雄が就任。高木豊、屋鋪要と加藤の3名を上位打線に置くことで得点が上がると考えた近藤は、1番高木、2番加藤、3番屋敷の上位打線を組んで「スポーツカートリオ」と命名して売り出す。後にメディアが「スーパーカートリオ」と称し、その呼び名が定着した。3人は試合前に何時間もビデオ室にこもり、相手投手の癖やモーションを研究し、いかに早いスタートを切ることを心がけた結果、3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では自己最多の48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。1986年(昭和61年)、17年目で初のオールスターに出場。この頃に左打ち一本に絞った。また、この頃からメディアへの露出も増え、その明るいキャラクターも相まって全国区の人気選手になっていった。しかし、1986年(昭和61年)以降は故障癖が抜けきれず、100試合以上に出場することもできなくなっていった。また、盗塁数も次第に落ちていき、1990年(平成2年)にはわずか1盗塁で終わった。この年を限りに現役引退を決意。引退試合は10月13日の対広島戦で行われた。自身は8回裏に代打で登場。佐々岡真司と対戦し、空振り三振に終わった。9回表はそのまま右翼の守備に就き、試合後はチームメイトから胴上げされた。21年間の現役生活を送ったが、所属したチームの成績に恵まれず、現役時代にリーグ優勝を一度も経験できなかった。引退後はフジテレビの野球解説者を務め、明るい性格と巧みな話術で自ら「笑いがとれる解説者」とタレント性を発揮。また、クイズ番組の解答者やタレントとしても活躍し、お茶の間のファンを多く獲得した。晩年には指導者として現場復帰を熱望していたが、2006年(平成18年)に肺癌が判明。治療のため入退院を繰り返し、2007年(平成19年)2月には左肺を摘出していた。術後は一旦回復し、『すぽると!』や『CSプロ野球ニュース』などで再びキャスターとして活躍していたが、6月頃に左足大腿骨へ癌が転移しているのが判明。歩くことも不自由な状態となり、仕事の自粛などで現場に出る機会も減っていった。その後容態が悪化し、2008年(平成20年)1月21日午後0時54分、肺癌のため神奈川県横須賀市の病院で死去。享年56。


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底抜けの明るさと愛くるしい笑顔で多くのファンに愛された加藤博一。その高いタレント性は、阪神から大洋にトレードされる際に吉本興業から「阪神の加藤で終われば、大阪でタレントとして食える」と引退を勧められるほどであったという。野球人としては、テスト入団でプロ野球界へ入り、長らく二軍で燻る生活を送った。トレードに出されること二度、努力に努力を重ねてようやく「スーパーカートリオ」の一員として花開いた加藤博一。それだけに、指導者になれないままあの世へ旅立つことになったのは、さぞかし無念であっただろう。芸人選手とまで揶揄された加藤博一の墓は、神奈川県横須賀市の南葉山霊園にある。エメラルドグリーンが輝くステンドガラスのような墓には墓誌が刻まれ、加藤の笑顔のように明るくて一際目立つ墓であった。戒名は「釋博仁居士」。

by oku-taka | 2021-09-04 14:21 | スポーツ | Comments(0)