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三浦朱門(1926~2017)

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三浦 朱門(みうら しゅもん)

作家
1926年(大正15年)〜2017年(平成29年)

1926年(大正15年)、イタリア文学者・三浦逸雄の長男として、東京府豊多摩郡(現在の東京都中野区)東中野に生まれる。「朱門」という名前は、キリスト教の聖人シモン・ペテロに因み、父・三浦逸雄がイタリア文学(ダンテ論)を専門としていたことに由来する。野方第五尋常小学校(現在の中野区立啓明小学校)、東京府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)を経て、旧制高知高等学校に入学。「中高生時代は手のつけられないほどの不良であった」と自称し、非行の内容として、門限破り、喫煙、飲酒、女性との交際を挙げている。旧制高知高校時代には喫煙名目で無期停学処分を受けたことがあるが、指導教授は三浦の父に「世が世なら息子さんは決して処分の対象になるようなことはしていない」と説明し、父もその旨を理解したという。しかし、旧制高知高等学校3年生の時に勤労動員される。1945年(昭和20年)7月21日、陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊。千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える。復学後、東京大学文学部言語学科に入学。1948年(昭和23年)に同大学を卒業し、父の口利きで日本大学芸術学部の非常勤講師となる。また、並行して創作活動をスタートさせる。1950年(昭和25年)、第17次『新思潮』に参加。1951年(昭和26年)、中国古代に材をとった『冥府山水図』で「芥川の再来」と呼ばれ、文壇で認められる。1952年(昭和27年)、「斧と馬丁」で芥川賞候補となり、本格的に作家活動へ入る。10月、日本大学芸術学部助教授となる。1953年(昭和28年)、同人誌で知り合った曽野綾子と結婚。以後、『礁湖』(1957年)、大学内部のあり方を描いた『セルロイドの塔』(1960年)や『神話』(1966年)などで地歩を固め、“第三の新人”の一人と評された。1967年(昭和42年)、新しい家庭のあり方をイメージした『箱庭』で、新潮文学賞を受賞。10月、日本大学芸術学部非常勤講師となるが、もともと日大の教員になったのは三流私大なら不勉強な自分でも教えられるだろうと高を括ったためであり、殊に30代半ば以降は作家としての収入が助教授の給料の数倍に達し、教員をするのがバカらしくなり、そういう気持ちが態度や勤務状況に反映して同僚から反感を買ったという。結局、1969年(昭和44年)の日大紛争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職。同年、大学紛争への批判をも込めて描いた『教えの庭』『竹馬の友』を刊行した。その後、中部大学女子短期大学の教授に就任。作家としても、1982年(昭和57年)に戦後知識人のあり方を描いた『武蔵野インディアン』で芸術選奨を受けた。1985年(昭和60年)、文化庁長官に就任。文化の国体として、アマチュアの文化・芸術団体を集めたイベント「国民文化祭」の創設を提唱。文人長官ならではのアイデアで文化振興に力を尽くした。しかし、雑誌に書いた「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」「レイプ犯人が犠牲者として貞操についてルーズな思想の持主を襲ってくれればよいのです。」「彼女たちはそういうことにあっても、水溜りで転んだ程度にしか考えないでしょう」「これも自分が魅力的だからこんなことになったのだと、かえってお得意になってくれるかもしれないのです。」などの文章が、東京・強姦救援センターなどから抗議を受ける。6月20日の参議院文教委員会で粕谷照美議員から追及されると、「売文業者として一種のだじゃれのつもりだったが、いろいろな点において書き間違った部分があると反省している」と陳謝した。1987年(昭和62年)、文化庁長官を退官。同年、芸術院恩賜賞を受賞。芸術院会員にも選出される。1991年(平成3年)、中部大学女子短期大学の学長に就任。1995年(平成7年)まで務めた。1996年(平成8年)、教育課程審議会の会長に就任。「ゆとり教育」を進める学習指導要領づくりに携わり、教育課程審議会において「私は今まで数学が私の人生に役立ったことは 無く、大多数の国民もそうだろう」とゆとり教育を推進する当時の文部事務次官の意向に沿った発言を行ない、「ゆとり教育」の道筋をつけた。1999年(平成11年)、文化功労者に選出。2004年(平成16年)10月には日本芸術院の院長に選出され、2014年(平成26年)9月末まで務めた。2015年(平成27年)頃から転倒することが多くなり、やがて車椅子生活となる。以降は妻・曽野綾子による在宅介護生活となり、2017年(平成29年)2月3日午前6時50分、間質性肺炎のため東京都内の病院にて死去。享年91。


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知的で軽妙な作風で知られる「第三の新人」の一人、三浦朱門。作家としては、かつては「芥川の再来」と呼ばれ、結婚後は「妻をめとらば曽野綾子」と書くほど愛した曽野綾子とともに、二人三脚で執筆活動に励んだ。また、生き字引さながらの博識は有名で、親しい同世代の作家仲間からは「エンサイクロペディア・ミウラニカ」と呼ばれた。その知識を乞われ、文化庁長官、日本文藝家協会理事長、日本芸術院院長など多くの役職を歴任し、文壇内に留まらない旺盛な活躍を見せた。しかし、著名なイタリア文学者・三浦逸雄の息子として生まれたせいなのか、いかにもお坊ちゃまな不用意発言が目立つ人であった。これに加えて妻の曽野綾子までが失言を連発するので、夫婦揃って選民意識な高慢ちきの代表的存在みたいになってしまった。晩年は車椅子生活を強いられ、半認知症状態となってしまった三浦朱門。かつて「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」と読者に問いかけ炎上した曽野綾子に介護されるという現実を、どのような思いで受け止めていたのだろうか。三浦朱門の墓は、神奈川県三浦市の久里浜霊園にある。横たえた洋型の墓には、「GRATIAS AGIMUS DEO」とあり、右側に墓誌が建つ。洗礼名は「パウロ」。なお、没年月日が不明であった三浦逸雄は、1991年(平成3年)10月3日に亡くなっていることが訪問によって判明した。

by oku-taka | 2021-08-29 02:00 | 文学者 | Comments(0)