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岡本信(1949~2009)

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岡本 信(おかもと しん)

ミュージシャン
1949年(昭和24年)〜2009年(平成21年)

1949年(昭和24年)、神奈川県横須賀市に生まれる。本名は、岡村 勝太郎。横浜で活躍していた1966年(昭和41年)5月、ジャズ喫茶等でエレキグループとして活躍していた「宮ユキオとザ・プレイ・ファイブ」に参加。リード・ヴォーカルを務める。1967年(昭和42年)、グループ名を「ザ・ジャガーズ」に改名。フィリップス・レコードより『君に会いたい』でデビューを果たす。このデビュー曲が大ヒットし、『ダンシング・ロンリー・ナイト』『マドモアゼル・ブルース』と次々にヒット曲を飛ばす。また、メンバーが着用したミリタリールックは流行となり、ザ・ジャガーズは一躍人気グループに君臨していった。1968年(昭和43年)3月には、松竹『進め!ジャガーズ 敵前上陸』で映画初主演を果たすなど順風満帆に見えたが、同月末、内紛によりリーダーの宮ユキオが脱退。4月に代わりのドラムに浜野たけしが加入。6月にデイヴ・ディー・グループのカバー曲である『キサナドゥーの伝説』、9月には『星空の二人』とヒット曲をリリースしたが、その後、移動で使用していた専用マイクロバスが交通事故を起こし、メンバー全員が頭を縫うなどの負傷を負う。その結果、療養中に代役でジャズ喫茶に出演したオックスに人気を奪われてしまい、ジャガーズはGSブームの中でも埋没した存在となってしまう。1969年(昭和44年)1月には『恋人たちにブルースを』をリリースするが、他のGSと同様に著しく歌謡曲化された曲になってしまった。この頃からGSブームにも陰りが見え始め、GSブームが終焉を迎えた夏以降は、ジャズ喫茶やゴーゴークラブが主な活動の場となる。まもなく、沖津ひさゆきが病気療養の為に離脱。1970年(昭和45年)に入り、佐藤安治、浜野たけしも脱退。メンバーの交代が顕著になっても活動を続けたが、4月の『いつか誰か』が最後のリリース曲となった。1971年(昭和46年)にはリリース曲もなく都内のディスコ等で活動をしていたが、解散コンサートも催さず、ザ・ジャガーズは7月に自然消滅していった。解散後、岡本はソロ歌手に転身したが、1973年(昭和48年)に引退。1981年(昭和56年)1月、内田裕也プロデュースの「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル」にて、ザ・ジャガーズが集結。このとき、確執していた宮ユキオとオリジナルメンバーが和解した。その後、アサヒビールのCMに『君に会いたい』が起用されたのを契機にグループが再結成され、断続的に活動を再開。これを機に、ライブ活動やテレビ出演などを精力的にこなし、1988年(昭和63年)にはタイガース・メモリアル・クラブ・バンドに参加した。また、ポール大源寺らとバンドを組んで音楽活動を続ける傍ら、東京・歌舞伎町に高級会員制クラブを経営するなどもしていた。1998年(平成10年)にはミュージカル『ジルバ』に出演するなど、ミュージカル俳優としても活動した。晩年は膵臓を悪くして入退院を繰り返すなど闘病生活を送っており、亡くなる直前は膵炎も患っていたという。2009年(平成21年)4月19日午後2時25分頃、連絡が取れないことを不審に思った知人の女性が、東京都北区西ケ原の岡本の自宅マンションを訪問したところ、浴槽の中で死亡しているのを発見。事件性は無く、その後、入浴中に心不全を起こしたものと断定された。享年59。60歳の誕生日を迎える前日のことであった。


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1960年代後半に巻き起こったグループ・サウンズの一大ブーム。その主要10グループの一つであった「ザ・ジャガーズ」のボーカルとして人気を誇ったのが岡本信である。日米のハーフよろしく、その甘いマスクは多くの女性を魅了し、着用していたミリタリールックと併せて一大ブームを巻き起こした。いかにもな「ヤンチャ」感を漂わせ、いくつになっても不良っぽさが抜けなかった岡本信。亡くなる直前には『BS永遠の音楽大全集 〜グループ・サウンズ大全集〜』に出演して『君に会いたい』を歌唱し、放送前の番宣でコントにも挑戦するなど元気そうな姿を見ていたので、突然の訃報には大変驚いた。いつまでも若々しさを失うことのなかった岡本信の墓は、神奈川県横須賀市の信常寺墓地にある。墓には「岡村家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「本泉院法信日勝居士」。

by oku-taka | 2021-08-29 00:22 | 音楽家 | Comments(0)