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山口瞳(1926~1995)

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山口 瞳(やまぐち ひとみ)

作家
1926年(大正15年)〜1995年(平成7年)

1926年(大正15年)、東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区)に生まれる。父親はアイディアマンの実業家であったが、事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」した。山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。小学校時代は野球に熱中。その後、旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院に入学したものの、在学中に召集される。兵役の後、同校を中退。鎌倉アカデミアに入学し、歌人の吉野秀雄やドイツ文学者の高橋義孝といった師に出会う。在学中から同人誌に作品を発表。また、国土社に入社して編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対する劣等感を指摘され、高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り、1954年(昭和29年)に卒業。河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年(昭和32年)3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職となった。1958年(昭和33年)、開高健の推薦で壽屋(現在のサントリー)に入社。PR雑誌『洋酒天国』の編集や、コピーライターとして活躍する。代表作に、ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」がある。1961ねん(昭和36年)、「婦人画報」に『江分利満氏の優雅な生活』の連載を開始。都内の社宅に住む実直さだけがとりえのサラリーマンの日々を、都会人らしい羞恥心とアイロニーをもって描き、多くの共感を呼んだ。1963年(昭和38年)には同作で第48回直木賞を受賞し、映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の編集者であった斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。ここから31年間、延べ1614回にわたり、一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム『男性自身』シリーズがスタート。都会的なセンスに満ちたエッセイで幅広い読者を獲得した。このほか、戦中派の自嘲を描いた『マジメ人間』 (1965年)、自身が住む国立市住民の人情を描く『わが町』(1968年)、中年作家の暗澹たる内面を描いた『人殺し』 (1972年)、高倉健主演で映画化もされた『居酒屋兆治』(1979年)などを発表。1979年(昭和54年)には、母の出生の秘密をテーマにした『血族』で菊池寛賞を受賞。さらに 1983年(昭和58年)の『家族 (ファミリー) 』では、愛憎相なかばする父親の一生を描いた。サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、1975年(昭和50年)に発表した『礼儀作法入門』はロングセラーとなっている。サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。また、競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。特に将棋には幼少の頃から熱心に打ち込み、専業作家になってからも、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んで稽古をつけてもらっていた。また、将棋棋士たちの世界のことが一般に知られていないことに義憤を抱き、「将棋界の宣伝マン」と自ら名乗った。「将棋界は大天才の集団」と唱え、著書や観戦記などで、個性的な将棋棋士たちを紹介したが、晩年には山口英夫や将棋連盟の米長邦雄との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いた事もあり、将棋界との交流を絶った。一方、私生活では、糖尿病を患っていたが、これを克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。しかし、1994年(平成6年)に前立腺癌の疑いで除去手術を受けて以降、他の部位にも腫瘍が生じ、入退院を繰り返す。死の直前は肺癌が急速に悪化。直前まで本人には告知されなかった。家族がホスピスへ移すことを相談している最中に容体が急変。1995年(平成7年)8月29日午前9時55分、東京都小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピス棟にて死去。享年69。


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軽妙洒脱な文章で多くの読者を魅了した山口瞳。小説のみならず、サラリーマンへの礼儀作法、食通としての料理批評、そして趣味についてのエッセイなど、多岐のジャンルにわたって「こだわり」を見せつづけ、山口の持つ「粋」に対する信念をユーモアたっぷりに伝え続けた。そして、弱者に対する優しい視線を持ち合わせていた人でもあった。山口瞳の墓は、神奈川県横須賀市の顕正寺にある。墓には「山口家墓」とあり、背面と右側面に墓誌が刻む。戒名は「文光院法国日瞳居士」。

by oku-taka | 2021-08-28 23:34 | 文学者 | Comments(0)