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安田伸(1932~1996)

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安田 伸(やすだ しん)

コメディアン
1932年(昭和7年)〜1996年(平成8年)

1932年(昭和7年)、東京府豊多摩郡野方町(現在の東京都中野区江原町)に生まれる。本名は、安田 秀峰(やすだ ひでみね)。生後まもなく川崎市に移り、川崎市立高津小学校6年生のとき疎開。母の実家がある川崎市柿生を経て厚木市に移り、旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)1年生のとき敗戦を迎える。軍人志望で陸軍幼年学校に願書を出していたが、敗戦によって音楽の道に志望を変更。コルネットを独学で学ぶ。学制改革を経て新制厚木高等学校に在学中、学校にあった使われていない吹奏楽器をみつけ、吹奏楽部を創部。アルトサックスを担当するとともに部長を務める。高校1年生のときは東大か一橋大学を志望していたが、高校3年のときに楽器に熱中し、1951年(昭和26年)東京藝術大学管楽器科に進む。しかし、クラシック音楽の世界の封建性になじめず、また高額の月謝を払い続けることに対する経済的困難もあり、進駐軍クラブでジャズマンとしてアルバイトを始める。やがて東京藝術大学に別科器学科が創設されるとそちらに移り、1953年(昭和28年)に修了。その後、石田正弘(サックス)、谷崎幸雄(ベース)、日野哲夫(ドラム)と共にバンド『フォー・デバーズ』を組んで東京や名古屋で演奏。このとき石橋エータローのバンドと共演したことで知り合い、その後、石橋がリーダーをつとめる『ザ・ファイブ』での活動を経て、『ハッピー・フーリナンス』の一員として名古屋のクラブ「フェルナンド」に出演。この頃から『スイングジャーナル』誌にしばしば名前が登場するようになる。1957年(昭和32年)秋、石橋エータローの紹介でハナ肇とクレージーキャッツに参加。ドラッグに溺れて脱退した石田正弘の後任としてテナーサックス(ときおりクラリネット)を担当した。ブリッジをしながらサックスを吹き鳴らす演奏法も有名で、舞台や一部のクレージー映画などで披露している。一方、真面目な性格で、メンバーの中で唯一『おとなの漫画』全1835回に出演した。また、『シャボン玉ホリデー』ではなべおさみと組んだコント、「キントト映画の助監督」役で知られ、監督役のなべに「ヤスダー!」と怒鳴られ続け、メガホンで頭を殴られ続けながらも理不尽な命令に黙々と従い、最後には立場が逆転する役柄を演じている。俳優としても活動し、多くの映画やテレビに出演。しかし、クレージーには音楽専門家のような形で参加していたため、元々俳優として活動していくつもりは無く、『週刊クレージー』のテーマ曲など作曲活動にも勤しんだ。しかし、植木の“お呼びでない、こりゃまた失礼致しました”“ハイそれまでョ”、谷の“ガチョーン”“ビローン”といったギャグが一世を風靡する中、真面目な性格ゆえに自らのタレント性のなさに悩み、追い討ちをかけるように、関係者の一人から「安田伸はクレージーのお荷物だ」と陰口を叩かれて一度は本気で脱退を考えた。しかし、友人から「お前は六大学野球における東大のような存在。負けてばかりのお荷物だが、いつか何かやるんじゃないかという期待があるから六大学の面白さがあるんだ」と言われて思いとどまったという。1966年(昭和41年)には美容研究家の竹腰美代子と結婚し、愛妻家であったことから「ミヨコー!!」という絶叫ギャグが生まれるに至った。1970年代に入ると、森繁久彌主演の舞台『屋根の上のバイオリン弾き』に出演。この際に演劇の面白さに気づき、本格的な勉強を始めた。一方、作曲家としても活躍するようになり、ドラマの主題歌、劇伴や企業の社歌、団体歌、体操の伴奏曲など数多くの曲を作曲した。後年は森岡賢一郎や南廣らとバンド『シーラカンス』を結成し、『もしもタヌキが世界にいたら』などの曲を発表した。また、谷啓のバンド『スーパーマーケット』とも共演していた。1994年(平成6年)5月、肝臓癌を宣告。闘病生活を送るが、8月には退院し、著書『ボクはガンに勝った』を発表。1996年(平成8年)7月、舞台『屋根の上のバイオリン弾き』に出演。それから間もなくの11月5日、急性心筋梗塞のため死去。享年64。


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クレイジー・キャッツきっての音楽家であった安田伸。多くのメンバーが俳優に活躍の場を移す中、安田は音楽家であることにこだわり続けた。特に、ステージで見せるブリッジをしながらサックスを吹く演奏法は、安田しか成し得ない圧巻のパフォーマンスであった。ハナ肇、植木等、谷啓、犬塚弘と個性の強いメンバーがいる中、真面目な安田は自らのタレント性の無さに悩んでいたが、「ミヨコー!!」なる絶叫系ギャグで立ち位置を確立し、役者としても当たり役に出会うことができたりと、苦労しながらも巡ってきたチャンスは必ず掴み続けた芸能人生だった。安田伸の墓は、神奈川県逗子市の神武寺にある。山奥の寺のさらに奥まった茂みの中に、訪れる人が少ないためなのか若干苔むした安田伸の墓がある。妻である竹腰美代子の実家の菩提寺に造られた墓には「安田伸 竹腰美代子 ここに眠る」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「秀雲院樂峯伸達居士」。

by oku-taka | 2021-08-15 16:15 | コメディアン | Comments(0)