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黒澤明(1910~1998)

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黒澤 明(くろさわ あきら)

映画監督
1910年(明治43年)〜1998年(平成10年)

1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井三丁目)に生まれる。父は厳格だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は連続活劇やウィリアム・S・ハート主演の西部劇をよく観ていたという。小学校時代は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった。1922年(大正12年)、小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。しかし、東京府立第四中学校を受験するも失敗し、京華中学校に入学。中学時代は読書に打ち込み、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学に熱中したほか、夏目漱石、樋口一葉、国木田独歩などの日本文学もたくさん読み、人間形成に大きな影響を与えた。また、作文で才能を示すようになり、1924年(大正13年)に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸から「京華中学創立以来の名文」と褒められた。一方、神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でもアベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇(フランス語版)』は映画監督を志すのに大きな影響を与えた。在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った。1927年(昭和2年)、京華中学校を卒業。東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通う。1928年(昭和3年)、油絵『静物』が第15回二科展に入選した。1929年(昭和4年)には造形美術研究所(後のプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加。洋画家の岡本唐貴に絵を学んだ。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し、1930年(昭和5年)の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された。そのうち、政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった。同年、徴兵検査を受けたが、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり、終戦まで徴兵されることはなかった。やがて非合法活動に身を投じ、無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした。非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する[ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に非合法活動から身を引いた。その後は友人が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した。1936年(昭和11年)、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった。その次に参加した『エノケンの千万長者』から山本のサード助監督を務めた。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、1937年(昭和12年)に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当。また、面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした。1941年(昭和16年)、山本監督の『馬』でB班監督と編集を担当し、他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して主演の高峰秀子との間に恋が芽生えたが、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった。その後も黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した。同年、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描いた『達磨寺のドイツ人』で初めてその才能が認められ、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された。1942年(昭和17年)に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。同年、監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、内務省の事前検閲で却下された。『サンバギタの花』では誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う天長節は米英的な習慣か」と反論するも却下された。次に山中峯太郎原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。9月、富田常雄の小説『姿三四郎』の広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み。プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させ、1943年(昭和18年)に『姿三四郎』で映画監督デビューを果たす。同作は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された。3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど、黒澤は新人監督として周囲の期待を集めた。1944年(昭和19年)第2作の『一番美しく』を発表。完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子と結婚し、1945年(昭和20年)3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた。同年、処女作の続編『續姿三四郎』を完成させ、次に桶狭間の戦いを描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を元にした『虎の尾を踏む男たち』を監督した。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後にGHQの検閲で封建制助長により非合法作品となり、1952年(昭和27年)まで上映禁止にされた。終戦後の最初の仕事は、川口松太郎の依頼で執筆した戯曲『喋る』で、12月に有楽座で新生新派により上演された。1946年(昭和21年)、戦後の初監督作『わが青春に悔なし』を発表。しかし、当時の会社は東宝争議で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた。10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、新東宝の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは伊豆の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し、谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画『四つの恋の物語』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した。1948年(昭和23年)、『醉いどれ天使』を発表。この作品でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた。また、作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んだ。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した。3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、成瀬巳喜男、プロデューサーの本木荘二郎と同人組織「映画芸術協会」を設立。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した。さらに、給料支払いを止められた組合員の資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、チェーホフの戯曲『結婚の申込み』も演出した。10月19日、第3次東宝争議は終結。東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、その次に新東宝と映画芸術協会が共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤が好きだったジョルジュ・シムノンの犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容が、日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた。1950年(昭和25年)、松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍が芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だったが、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった。しかし、1951年(昭和26年)9月にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった。一方、松竹で監督した『白痴』(1951年)は、学生時代から傾倒するフョードル・ドストエフスキーの同名小説が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場のソ連では高く評価された。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、同年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ。1952年(昭和27年)、東宝復帰第1作『生きる』を発表。キネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、第4回ベルリン国際映画祭ではベルリン市政府特別賞を受賞した。黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』の脚本を執筆した。撮影は1953年(昭和28年)5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した。1954年(昭和29年)に作品は公開されると興行的に大成功したが、公開当時は必ずしも高評価を受けることはなく、その後、国内外で映画史上の名作として高く評価されるようになった。1955年(昭和30年)2月、カンヌ国際映画祭の審査員に要請されるも辞退。同年は『生きものの記録』の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした。1本目の『蜘蛛巣城』(1957年)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み、2本目にゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を監督。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、能の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった。1957年(昭和32年)10月、ロンドンのナショナル・フィルム・シアター(英語版)の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォード、ルネ・クレール、ヴィットリオ・デ・シーカ、ローレンス・オリヴィエとともに表彰された。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした。この旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、映画産業に対する危機感を事あるごとに言及するようになった。1958年(昭和33年)、時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』が興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た。同年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた。そこで、1959年(昭和34年)4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった。1960年(昭和35年)7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年(昭和38年)3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた。一方、黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られた。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した。黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入しており、黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語って、テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした。同作はその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた。1966年(昭和41年)7月、東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは東京都港区の東京プリンスホテル4階に事務所を構えた。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった。すでに欧米からいくつものオファーを受けており、6月にはアメリカのエンバシー・ピクチャーズ(英語版)と共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロル(英語版)と意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた。例えば、黒澤は70ミリフィルムのカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズのモノクロ映画で作ろうと考えていた。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが、アメリカ側との意思疎通に欠き、11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった。1967年(昭和42年)4月、真珠湾攻撃が題材の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された。黒澤は東映京都撮影所で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、1968年(昭和43年)12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された。1969年(昭和44年)7月、木下惠介、市川崑、小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した。結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた。黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年(昭和46年)8月に名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった。しかし、12月22日早朝、自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった。1973年(昭和48年)3月14日、ソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた。ソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年(昭和49年)4月から約1年間にわたり撮影をしたが、シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めた。1975年(昭和50年)に公開された同作は第48回アカデミー賞でソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤の復活を印象付けた。1976年(昭和51年)、映画人として初めて文化功労者に選出。1977年(昭和52年)には再びソ連で作ることを画策し、エドガー・アラン・ポーの短編小説『赤死病の仮面』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった。この頃になるとメディアへの露出が増え、サントリーリザーブのテレビCMにも出演した。1978年(昭和53年)7月1日、イタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で外国監督賞を受賞し、その副賞であるファーストクラスの航空券を使ってアメリカに10日間旅行した。黒澤はジョージ・ルーカスなどと昼食を共にし、ルーカスと次回作『影武者』の資金援助の相談もした。武田信玄の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで20世紀フォックスが世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた。『影武者』はオーディションで無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった勝新太郎の降板騒動が起きるなど、公開前からマスコミを賑わせたが、当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『乱』を制作。同作は毛利元就の三本の矢の教えにシェイクスピアの『リア王』を組み合わせた作品で、かつて初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった。1981年(昭和56年)10月に渡米し、ニューヨークで行われたジャパン・ソサエティー主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談。フランスの映画製作者セルジュ・シルベルマンの出資で製作が実現することになったが、1983年(昭和58年)3月にフランの海外流出が制限されたため製作延期となった。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽能をテーマにしたドキュメンタリー映画『能の美』を企画し、黒澤監修で佐伯清を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した。11月1日、神奈川県横浜市緑区に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し、『乱』はヘラルド・エースの参加で製作再開した。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、1986年(昭和61年)3月の第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされ、黒澤も監督賞にノミネートされた。また、黒澤は同賞でジョン・ヒューストンやビリー・ワイルダーとともに作品賞のプレゼンターも務めた。この間の1985年(昭和60年)には、映画人初となる文化勲章を受章した。1990年(平成2年)、第62回アカデミー賞で名誉賞を受賞。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「私はまだ映画がよく分かっていない」と語った。同年、自身が見た夢を元にしたアンソロジー的作品『夢』を発表。この作品も国内の映画会社で資金調達ができず、スティーヴン・スピルバーグの計らいでワーナー・ブラザースが出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスのILMが特殊合成に協力し、マーティン・スコセッシがゴッホ役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた。その後は国内資本での映画製作が続き、『八月の狂詩曲』(1991年)は村田喜代子の芥川賞作品『鍋の中』が原作で、『まあだだよ』(1993年)では内田百閒をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった。1993年(平成5年)11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした『海は見ていた』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した。そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるが、1995年(平成7年)3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒し骨折。その後リハビリを続けていたが、体調を崩し自宅で寝ていることが多くなり、脚本は完成することなく、以降は車椅子生活を強いられた。その間の1996年(平成8年)には日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、1997年(平成9年)にはカルピスのために自筆の絵コンテをCGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、初めてのCM制作でデジタル表現に取り組んだ。12月には三船が死去したが、1998年(平成10年)1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の久雄が弔辞を代読した。8月中旬より体調が悪化。9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中のため死去。享年88。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス、アッバス・キアロスタミなどからは弔電が届いた。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表した。没後、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる国民栄誉賞を追贈された。


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「世界のクロサワ」と称された日本を代表する映画監督・黒澤明。生涯に30本の映画を作り、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した『羅生門』をはじめ、『生きる』『七人の侍』『用心棒』と世界に誇る名作を次々に生み出した。視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力といったその独特の映像世界は世界中の映画ファンを虜にし、フランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグ、ベルナルド・ベルトルッチ、スタンリー・キューブリックといった名だたる映画監督が黒澤の影響を受けたことを公言し、その作品を賞賛している。こうした名作を世に送り出したその裏には、「完全主義者」「黒澤天皇」と呼ばれるほど映画製作に対する厳しい姿勢があった。『影武者』撮影の裏側に迫ったドキュメンタリーにおいても、砂を撒き散らしながらスタッフに怒鳴る姿や、立ち位置に対して出演者に怒る姿が捉えられ、細部にまでこだわる完璧主義の映画監督の姿が映しだされていた。このほか、演出に適した天候になるまでひたすら待つこともあれば、映画には映らない封筒の中の手紙の文章までスタッフに書かせたこともあったという。こうしたことからワンマン監督のイメージがもたれる黒澤明だが、すべては米アカデミー賞特別名誉賞が贈られた際に語った「私はまだ映画がよくわかっていない」の一言に通じるのではないだろうか。物事を突き詰めて考える性分からこそ、妥協することが許せない。そうして黒澤明は正解のない世界の完璧を求めて、自然と世界的名作を生み出していったのかもしれない。黒澤明の墓は、神奈川県鎌倉市の安養院にある。さすが世界的な映画監督の墓だけに、訪問者と供え物が絶えることはないようで、筆者が訪問した時は酒とポテトチップス、そして三船敏郎展のチラシのコピーが供えられていた。横たえた洋型の墓には「黒澤家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「映明院殿紘國慈愛大居士」。

by oku-taka | 2021-08-15 15:24 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)