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土光敏夫(1896~1988)

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土光 敏夫(どこう としお)

経済人
1896年(明治29年)〜1988年(昭和63年)

1896年(明治29年)、岡山県御野郡大野村(現在の岡山市北区)に生まれる。母は日蓮宗に深く帰依した女性で、女子教育の必要性を感じ、ほとんど独力で横浜市鶴見区に橘学苑を開校した程の女傑であった。校訓を「正しきものは強くあれ」とし、土光は母の気性を強く受け継いだ。その後、肥料仲買商を営む父を助ける生活を送り、勉強が疎かになった。そのため、県立岡山中学(現在の県立岡山朝日高校)を受験するも不合格だった為、高等小学校に進学。翌年、再び受験したが不合格。仕方なく、高等小学二年に進学した。その後、また受験するも合格しなかったので旧制中学受験だけで合計三回の失敗となった。県立学校受験を失敗したことから、やむなく岡山市内の私立関西中学(現在の関西高等学校)に進学。卒業後、高校から帝国大学へ進学するコースを希望したが、6年間の学生生活によって土光家が保有する田畑をすべて売却しなければならなくなり、それではその後の弟や妹の学費を出すのが困難になると考えたことから、3年の学生生活で済む高等専門学校に進学することを決意。当時の高等工業のうち最難関校で、競争倍率は20倍以上であった東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を受験するも結果は不合格で、人生四回目の受験失敗となった。当時は予備校などもないことから、 母校の大野小学校の代用教員となり、受験勉強にいそしんだ。その後、1浪を経て、東京高等工業学校機械科に入学。在学時は学費を捻出するため、住み込みの家庭教師をして学業に打ち込む一方で、ボート部の応援団長を務めたり、寄席見物を楽しむこともあった。1920年(大正9年)に大学を卒業し、東京石川島造船所(現在のIHI)に入社。学生時代からタービンの研究に専念していた土光は、タービン設計部門に配属された。 1922年(大正11年)、タービン製造技術を学ぶためスイスに留学。1936年(昭和11年)、芝浦製作所(現在の東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現在のIHIシバウラ)が設立されると、技術部長として出向。一方、橘学苑を創設した母が急逝し、自らが理事長に就任。自身の収入の多くを橘学苑に寄付しつつ、1949年(昭和24年)と1979年(昭和54年)の2度にわたって校長職にも就き、学校経営に携わった。1946年(昭和21年)には社長に就任した。時は戦後の混乱の最中であり、主力工場を再建するために、横浜市鶴見の本社工場と長野県の松本工場の間を、夜行列車で忙しく往復した。また、資金繰りにも奔走し、銀行や当時の通商産業省へ連日のように通い詰め、この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名された。そうした手腕を買われ、1950年(昭和25年)に経営の危機であった本社に社長として就任し、再建に取り組む。土光は「受注なくして合理化なし」を持論とし、徹底した経費節減と生産合理化などを推し進めるとともに、欧米諸国の会社と技術提携を結び、先進技術の導入にも努めた。徹底した合理化と朝鮮戦争勃発の特需景気にも乗って業績は躍進し、経営再建に成功。しかし、その後も自らが陣頭に立ってセールスに走り、手綱を緩めることはなかった。1954年(昭和29年)、朝鮮戦争後の造船不況の支援のため政府が業界に利子補給したことに関連してリベートが政界に贈賄されたとして、造船疑獄事件が発生。石川島播磨の社長だった土光も逮捕されたが、20日間の勾留後に「関係なし」として不起訴処分、釈放された。この事件を踏まえ、「人生には予期せぬ落とし穴がついて回る。公私を峻別して、つねに身ぎれいにし、しっかりした「生き方をしておかねばならない」という教訓を得たと後に振り返っている。1959年(昭和34年)、石川島ブラジル造船所 (イシブラス)を設立。このブラジル進出成功を契機とし て、シンガポール、オーストラリア、ノルウェーなどにも足場を築いた。1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業に社名を変更。同社の社長となる。1962年(昭和37年)、石川島播磨重工業相生工場が進水量世界一を達成。1964年(昭和39年)、名古屋造船と名古屋重工業を吸収合併し、造船世界一として名を馳せた。同年、石川島播磨重工業の会長に退く。1965年(昭和40年)、経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を石坂泰三より依頼され、社長に就任。ここでも辣腕を振るい、土光は組織活動のバイタリティーを重視し、上部と下部の活発な意見交流を求めた。上部からの働きかけを「命令」ではなく「チャレンジ」と名付け、下部から上部へのコミュニケーションを「レスポンス」と呼び、 この「チャレンジ・レスポンス」は社内の合言葉となった。また、社内組織の改革を打ち出し、経営幹部会の新設や、事業部の自主独立性強化を図った。生産体制の確立や技術開発の強化、販売体制の整備などの成果により、東京芝浦電気の業績は急速に回復し、社長就任の翌年には再建に成功した。同年、日本インダストリアル・エンジニアリング協会の会長に就任。1967年(昭和42年)蔵前工業会理事長に就任。一方、引き続き東芝で手腕を振るい、「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!」などの言葉を残したが、いわば「モーレツ経営」とも言える土光のやり方は東芝の体質を変えるまでには至らず、1972年(昭和47年)に会長に退いた。1974年(昭和49年)、日本経済団体連合会(経団連)第4代会長に就任。以後、土光は「行動する経団連」を標榜し 、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。また、日本経済の一層の自由化と国際化を図り、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。1981年(昭和56年)、鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること、増税によらない財政再建の実現、各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進、3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと、の4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。就任後は行政改革に執念を燃やし、審議は急ピッチで進められ、次年度の予算編成に反映させるべく、同年7月には早くも第1次答申を取りまとめた。 1983年(昭和58年)に、行財政改革答申をまとめ、「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務めて、行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」などの異名を奉られた。また、行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』が放送された際には、戦後1回も床屋へ行ったことがなく自宅で息子にやってもらう、穴とつぎはぎだらけの帽子、戦前から50年以上使用しているブラシ、農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ、妻と2人きりで摂る夕食のメニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米という土光の質素な生活が話題となり、「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。1985年(昭和60年)、つくば万博の会長に就任。1986年(昭和61年)11月、民間人としては初の勲一等旭日桐花大綬章を受章。このとき、体調を崩して入院していた土光は、入院先の病院から皇居に赴いた。1988年(昭和63年)8月4日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院(現在の東芝病院)で死去。享年91。


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国債発行残高が82兆円であった1981年(昭和56年)、「増税なき財政再建」を掲げ、国鉄・専売公社・電電公社の民営化をはじめとする大胆な行政改革の先頭に立った土光敏夫。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力で、石川島播磨重工業、東芝、経団連のトップを歴任した。その力は行政改革にも遺憾無く発揮され、「ミスター合理化」「荒法師」などと称された。また、バス通勤、穴とつぎはぎだらけの帽子という財界人とは思えない質素な暮らしは多くの国民の支持を集め、特にメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米という夕飯は大きな話題となり、「メザシの土光さん」と呼ばれて親しまれた。土光敏夫の墓は、神奈川県鎌倉市の安国論寺にある。質素に生きた彼らしい小さな洋形の墓には「土光」であり、左側に墓誌、右側に熱心な法華経信者であったことからか「南無妙法蓮華経」と刻まれた石塔が建つ。戒名は「安国院殿法覚顕正日敏大居士」。

by oku-taka | 2021-08-15 14:57 | 経済・技術者 | Comments(0)