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鈴木大拙(1870~1966)

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鈴木 大拙(すずき だいせつ)

宗教哲学家
1870年(明治3年)~1966年(昭和41年)

1870年(明治3年)、石川県金沢市本多町に生まれる。本名は、鈴木 貞太郎(すずき ていたろう)。6歳のときに医師であった父を失う。1887年(明治20年)、石川県専門学校初等中学科を卒業。第四高等中学校(現在の金沢大学)に入学するも、1889年(明治22年)に中退。飯田町小学校で英語教師として家計を助けるも、再び学問を志して上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学して英文学を修めたが、かねて参禅を志したことから学校を中退し、鎌倉・円覚寺の今北洪川に師事。洪川の寂後は釈宗演につき、重ねて円覚寺に参禅を続けた。大拙の名はこの宗演から受けた居士号であり、「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。1892年(明治25年)9月、東京帝国大学文科大学選科に入学。選科への入学は、同郷の学友であった西田幾多郎の勧誘による。1895年(明治28年)9月、同科を修了。1897年(明治30年)、宗演の選を受け米国に渡る。東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。そして、大拙の名は新進の仏教学者として、一躍して欧米に知られた。1909年(明治42年)、帰国。円覚寺の正伝庵に住み、10月から東京帝国大学文科大学講師、ついで学習院講師となりった。1921年(大正10年)、京都に転居し、大谷大学教授に就任。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した。1936年(昭和11年)、世界宗教会議に日本代表として出席。その後、鎌倉に移住。北鎌倉の東慶寺住職であった井上禅定と共に、1941年(昭和16年)に自ら創設した「松ヶ岡文庫」で研究生活を行った。1949年(昭和24年)、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加。中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年、日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年(昭和25年)よりアメリカ各地で仏教思想の講義を行い、1952年(昭和27年)から1957年(昭和32年)までは、コロンビア大学に客員教授として滞在。仏教、特に禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。この他、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行い、1959年(昭和34年)に至るまで、欧米各国の大学で仏教思想や日本文化についても講義を行った。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席。また、エマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。1960年(昭和35年)、大谷大学を退任。名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続け、1964年(昭和38年)には94歳にして『教行信証』全6巻の英訳を完成させた。1966年(昭和41年)7月11日、腹痛を発病し、午後に東京聖路加国際病院へ入院。12日午前5時5分、絞扼性イレウス(腸閉塞)のため死去。享年95。


鈴木大拙(1870~1966)_f0368298_14351827.jpg

仏教と禅の思想を世界に紹介した鈴木大拙。東洋哲学の素晴らしさを世界に紹介すべく、西洋思想と言語を学び、それらを駆使して自身の禅の体験や仏教研究を広く伝えた。特に、禅を「ZEN」として世界に定着させた功績は非常に大きい。90代に入っても旺盛に研究生活を続け、94歳にして『教行信証』全6巻の英訳を完成させるという偉業を成し遂げた。その昔、NHKのアーカイブス番組で彼のインタビューが放送されていたが、当時93歳とは思えないほど会話が流暢で、豊富な知識も次々に繰り出し、あまりの難解さにインタビュアーの犬養道子がついていけなくなるほど頭脳明晰であったことは大変驚いた。その生涯を仏教と禅思想の普及に捧げた鈴木大拙の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺と石川県金沢市の野田山墓地に分骨されている。前者の墓は五輪塔になっており、右側に「鈴木大拙夫妻之墓」と彫られた石柱が建つ。

by oku-taka | 2021-08-15 14:37 | 学者・教育家 | Comments(0)