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笠智衆(1904~1993)

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笠 智衆(りゅう ちしゅう)

俳優
1904年(明治37年)〜1993年(平成5年)

1904年(明治37年)、熊本県玉名郡玉水村(現在の玉名市)立花に生まれる。生家は浄土真宗本願寺派来照寺で、父が住職を務めていた。玉水村立玉水尋常小学校、熊本県立玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業後、旧制の東洋大学印度哲学科に入学。実家の寺を継ぐために進学すると両親には告げていたが、実際にはその気はなかったという。1925年(大正14年)、大学を中退。松竹蒲田撮影所の俳優研究所第一期研究生の募集に合格し、入所した。しかし、俳優になることは本心ではなく、住職以外ならどのような職業でもよかったという。それでも、同年7月に父の死で一度住職を継ぐが、結局1926年(大正15年)1月、兄にその座を譲って再度上京し撮影所に復帰。以来、松竹映画の俳優としての道を歩み出す。当初は大部屋俳優時代がしばらく続き、映画は大半が通行人などの端役での出演であった。また、大部屋での生活は10年以上も続いた。1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の『若人の夢』に端役で出演。以降、『学生ロマンス 若き日』などサイレント期の小津作品に断続的に、いずれも端役で出演した。1936年(昭和11年)、『大学よいとこ』で主演級の役を演じ、同年公開の『一人息子』では、当時32歳ながら初めて老け役を演じた。これが出世作となり、他の監督の作品にも脇役や主要な役で出演するようになった。1937年(昭和12年)、『仰げば尊し』(斎藤寅次郎監督)で初主演を果たす。また、小津監督作品においても、1942年(昭和17年)の『父ありき』で主演。7歳年下の佐野周二の父親を演じ、以降小津作品に欠かせない存在として、戦後の小津作品に全作出演した。『晩春』では原節子の父親を演じ-9『宗方姉妹』では4歳下の田中絹代の父親、『東京物語』では1歳しか歳の変わらない杉村春子、5歳下の山村聡らの父親で15歳も年上の東山千栄子と夫婦を演じるなど、老け役として見事な演技を披露した。小津作品の出演によって声価を高めた笠は、日本映画界を代表する俳優となった。また、小津作品で多く父親役を演じたことから「日本の父親像」を確立したと評された。小津作品以外にも、黒澤明、木下惠介、岡本喜八ら名匠の作品に数多く登場し、貴重なバイプレーヤーとして活躍。 1948年(昭和23年)には『手をつなぐ子等』『生きている画像』で毎日映画コンクール男優演技賞、1951年(昭和26年)に『海の花火』『命美わし』で毎日映画コンクール男優演技賞、『我が家は楽し』『命美わし』『麦秋』でブルーリボン賞助演男優賞を受賞した。1969年(昭和44年)からは山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに柴又帝釈天の御前様(坪内住職)役で出演した。一方、1965年(昭和40年)に『たまゆら』の主演でテレビドラマにも進出。生涯で約90本のドラマに出演し、向田邦子、倉本聰、山田太一といった名高い脚本家からは指名で出演することも多かった。1967年(昭和42年)、紫綬褒章を受章。1975年(昭和50年)、勲四等旭日小綬章を受章。1987年(昭和62年)、『今朝の秋』に主演。83歳でのテレビドラマ主演は当時最高齢主演であった。同年、菊池寛賞を受賞。晩年には膀胱癌を発症。医師から手術を勧められるもそれを拒否し、最期まで現役を全うした。亡くなる約3か月前に封切られた映画『男はつらいよ 寅次郎の青春』が遺作となった。1993年(平成5年)3月16日、死去。享年88。


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映画やドラマなどで味わい深い人間像を演じた笠智衆。出演本数360本以上の中で、そのほとんどが老け役としての出演であり、日本を代表する老け役として不動の地位を築いた。また、熊本訛りの実直で朴訥とした演技で独特の個性を確立。小津安二郎をはじめ木下恵介、岡本喜八、山田洋次など、その演技は巨匠と呼ばれる映画監督たちから愛された。唯一無二の存在感で日本映画史に燦然と名を残す「史上最高の大根役者」、笠智衆の墓は、神奈川県鎌倉市の成福寺にある。墓には「笠家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「憶念院釋智衆」。

by oku-taka | 2021-08-07 20:13 | 俳優・女優 | Comments(0)