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中里恒子(1909~1987)

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中里 恒子(なかざと つねこ)

作家
1909年(明治42年)〜1987年(昭和62年)

1909年(明治42年)、神奈川県藤沢市に生まれる。本名は、中里 恒(なかざと つね) 。生家は幕末から続く呉服太物商であったが、恒子が3歳のときに破産した。1922年(大正11年)、横浜紅蘭女学校(現在の横浜雙葉学園)に入学。翌年9月の関東大震災で家も学校も焼失したため川崎に転居し、川崎実科高等女学校(現在の川崎市立川崎高等学校)に編入する。このときの全てが灰燼に帰す体験により、文学への関心を深める。1925年(大正14年)、女学校を卒業。翌年、文藝春秋社員をしていた遠縁の者より永井龍男を紹介される。1928年(昭和3年)、処女作『砂上の塔』を『創作月刊』に発表。また、女性だけの同人誌『火の鳥』などの雑誌に『明らかな気持』などの創作を発表し始める。12月、兄の知人の佐藤信重と結婚して佐藤姓となる。1932年(昭和7年)、結核の養生のため逗子町に転居。このとき、横光利一、川端康成と知り合う。1936年(昭和11年)、横光利一門下である寺崎浩編集の「文学読本」の同人となる。1937年(昭和12年)6月号から翌年3月号まで雑誌『少女の友』に連載された川端康成『乙女の港』の下書きを書く。1938年(昭和13年)、戦前では珍しい国際結婚をした兄をテーマにした『乗合馬車』を発表。翌年2月には、同作と「日光室」で第8回芥川賞を受賞。女性初の芥川賞受賞となった。その後も『まりあんぬ物語』など作家活動に勤しむも、師事した横光利一の「書きすぎないように」の教えを守り、長らく寡作の作家として活動していた。一方、私生活では、1952年(昭和27年)に長女がアメリカ・ボストン市のニュートン聖心大学に留学。1955年(昭和30年)4月には長女が結婚することになり渡米。かつて国際結婚を冷静な目で見ていた中里自身が大きな動揺に襲われるという経験をした。しかし、その後はその経験を作品に活かし、国際結婚をした娘を訪ねた自身の渡米経験や混血の孫を描いた『峠』『遠い虹』、娘の国際結婚に取材した『南への道』などの作品に結実した。1956年(昭和31年)、別居中だった夫と離婚が成立する。1974年(昭和49年)、老境を描いた『歌枕』で読売文学賞を受賞。1975年(昭和50年)、『わが庵』で日本芸術院恩賜賞を受賞。1979年(昭和54年)、『誰袖草』で女流文学賞を受賞。このほか『残月』『此の世』『時雨の記』など、老いを自覚した後の微妙な愛情のやり取りを描いた作品を多く発表した。1980年(昭和55年)、乳眼の手術を受ける。1983年(昭和58年)、芸術院会員に推薦される。1985年(昭和60年)、勲三等瑞宝章を受章。1986年(昭和61年)、腸閉塞のため入院。1987年(昭和62年)1月、再び入院し、4月5日、大腸腫瘍のため死去。享年77。


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女性として初めて芥川賞を受賞した作家・中里恒子。自身の経験を基に、人生の機微を冷静に見つめた作品を数多く残した。特に国際結婚と老境をテーマとした作品の執筆に力を注ぎ、日本文学界に新たな世界観を切り開いた。呉服問屋の娘、資産家との結婚、そして人気作家との知己を得たことで始まった作家活動なだけに、他の女流作家や評論家から「やっかみ」を受けたこともあるという。閨秀さと柔らかい物言いを持ちながら、決して表立つことのなかった中里恒子の墓は、神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。墓には「中里家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「圭璋院文琳恵恒大姉位」。

by oku-taka | 2021-08-07 19:55 | 文学者 | Comments(0)