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清水崑(1912~1974)

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清水 崑(しみず こん)

漫画家
1912年(大正元年)〜1974年(昭和49年)

1912年(大正元年)、長崎県長崎市銭座町(現在の天神町)に生まれる。本名は、清水 幸雄(しみず さちお)。小学校に上がる前に両親を亡くし、祖父母の家に引き取られる。一方、幼い頃から絵が好きで、将来は東京の美術学校に進学したいと考えるも、旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)2年生の時に祖父が亡くなり、生活が困窮する。1931年(昭和6年)、同校を卒業。市内の呉服店に就職し、番頭として住み込むも、仕事で失敗が続いて解雇。その後、ほとんど家出の形で上京。東京美術学校を目指し、街頭に立って似顔絵を描きながら絵の修行をする。その後、兄が雑誌社の編集者だという級友に勧められて挿絵の見本を描いたところ、文芸春秋社の雑誌「オール読物」に掲載されていた吉川英治のエッセイの挿絵として使用される。以降、毎月のように注文がくるようになり、雑誌「オール読物」や「話」などにカットや似顔絵を描くようになる。また、岡本一平に認められて弟子入りを果たす。1933年(昭和8年)、同じ挿絵画家であった吉田貫三郎の紹介で、横山隆一・近藤日出造らの新漫画派集団に参加。新聞社や雑誌社から受けた注文を、メンバーが手分けして描き上げるという漫画製作会社であり、アメリカナイズされた漫画集団の作家の絵や仕事ぶりを見ることで「漫画の書き方」を習得することになる。1935年(昭和10年)、『新青年』に「東京千一夜物語」を連載。これがヒットし、後に内田吐夢監督によって映画化された。戦時中は、中国・広東の南支派遣軍報道部に赴き、宣撫員が配るためのポスターや壁新聞を製作する。戦後まもなく、評論家の小林秀雄に勧められ「新夕刊」に政治漫画を描いていたが、朝日新聞にスカウトされ嘱託として政治漫画を担当。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。また日本ニュースでは「漫画の頁」という風刺コーナーを与えられ、執筆風景も含めてニュース映画に題材を提供した。1949年(昭和24年)、火野葦平の小説『河童』の装丁を依頼される。しかし河童をどう描けばよいのか分らなかったことから、小川芋銭の『河童百図』を買い求めて研究し、清水崑オリジナルの「かっぱ」を完成させる。1951年(昭和26年)、「小学生朝日」に動物モノで連載をと頼まれ、『かっぱ川太郎』を発表。翌年に同作の単行本が発売されると、小学生向けの漫画にもかかわらず、大人が買い求めるという現象が発生。これが当時週刊朝日編集長であった扇谷正造の目に留まり、「大人向け」の河童漫画の連載を依頼。1953年(昭和28年)、週刊朝日で「かっぱ天国」を連載。作品は大ヒットとなり、『かっぱ川太郎』がNHKの連続テレビ漫画として放送され、『かっぱ天国』は宝塚でレビュー化されるなど、「かっぱ」漫画の人気は社会現象になった。さらに、黄桜酒造(現在の黄桜)社長・松本司郎の目に留まり、1955年(昭和30年)から同社のキャラクターとして河童が採用された。同年、カルビーの「かっぱあられ」に代表される菓子広告も手がけるようになり、特に「かっぱえびせん」は現在でもその名を残している。その後も各雑誌に『かっぱ源氏』『かっぱ区八町』『かっぱ放題』『かっぱ風来』などを連載。昭和40年代まで長期に渡り「かっぱ」ブームが続いた。晩年は「寒雷」で句作に励み、1972年(昭和47年)には同人となった。1974年(昭和49年)3月27日午後8寺30分、肋膜炎のため東京医科歯科大学附属病院で死去。享年61。


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「崑かっぱ」と呼ばれる河童シリーズのイラストで一世を風靡した清水崑。柔らかい筆使いで独自の画風を確立し、軽妙なタッチは多くの支持者を獲得した。特に黄桜のCMキャラクターは、「黄桜」といえば「かっぱ」と言われるほどイメージが定着し、ブランドキャラクターとして長年愛される形となった。清水崑の墓は、神奈川県鎌倉市の円覚寺にある。墓域内にある4基の墓の真ん中に縦長の清水崑の墓があり、墓には自筆で「清水崑」と刻まれている。

by oku-taka | 2021-08-01 22:55 | 漫画家 | Comments(0)