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川田順(1882~1966)

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川田 順(かわだ じゅん)

歌人
1882年(明治15年)〜1966年(昭和41年)

1882年(明治15年)、東京市浅草区三味線堀(現在の東京都台東区)に生まれる。府立四中、一高を経て、東京帝国大学に進学。当初、文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。しかし、小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科。1907年(明治40年)、大学を卒業し、住友総本社に入社。元来、住友では中途で外部の官学出身者を引き抜いて採用していたが、川田の代から新卒の第1期定期採用がスタートし、川田ら東大法科出身者は7名、京大法科出身者が5名の計12名が入社した。入社後は自宅の神戸市御影から大阪までの通勤中に藤原定家の『明月記』を精読。会社では住友商人として主に経理畑を歩み、「住友に川田あり」の評判を得ていた。1930年(昭和5年)、理事に就任。同年、一足飛びで常務理事に就任し、1936年(昭和11年)には小倉正恆の後任として住友の総帥たる総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職した。その間、佐佐木信綱門下の歌人として「新古今集」の研究家としても活躍。1942年(昭和17年)4月、歌集『鷲』『国初聖蹟歌』で第1回帝国芸術院賞を受賞。1944年(昭和19年)、『吉野朝の悲歌』などで朝日文化賞を受賞。新井洸、木下利玄とともに明治・大正期『心の花』の三羽烏とされ、戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめた。一方、元京都帝国大学経済学部教授・中川与之助夫人で歌人の鈴鹿俊子(中川夫妻は既に3子をもうけていた)の作歌指導にもあたる。川田と中川は旧知の間柄であったが、俊子に「新古今集」研究の手伝い等をつとめてもらう中で、川田と俊子の交際は人目を忍ぶ仲へと発展し、俊子との仲は中川の知るところともなる。川田は俊子との別れを中川に誓うが、結局逢瀬に再び身をやつすこととなり、1948年(昭和23年)8月に中川夫妻は離婚に至る。川田は自責の念に苛まれたことなどから、11月30日に家出。12月1日に亡妻の墓前で自殺を図った。一命をとりとめたが、川田が家出の際に谷崎潤一郎たち友人に宛てて遺書を、新聞社に告白録などをそれぞれ送っていたことから、自殺未遂の顛末が報道され、俊子との交際が公になり、いわゆる“老いらくの恋”として騒がれることとなる。1949年(昭和24年)、川田は俊子と結婚。再婚後は京都から神奈川県に転居し、俊子の2人の子を引き取って同居生活を送った。1963年(昭和38年)、日本芸術院の会員に選出。1966年(昭和41年)1月22日午前10時、全身性動脈硬化症のため東京大学医学部附属病院で死去。享年84。


川田順(1882~1966)_f0368298_22222425.jpg

サラリーマンから歌詠み人に転じた異色の経歴を持つ川田順。初期は浪漫的な作風であったが、後に写実的な傾向に転じた。しかし、何より彼の名を今なお有名にしているのが、戦後になって起きたスキャンダラスな「老いらくの恋」事件。弟子である鈴鹿俊子との恋愛はマスコミの恰好の餌食となったが、やがて俊子は夫と協議離婚。川田と俊子は湘南の辻堂で新しい暮らしをはじめ、静かな余生を過ごした。「「若き日の恋は、はにかみておもてを赤らめ、壮士時の四十歳の恋は、世の中にかれこれ心配れども墓場に近き、老いらくの恋は怖るる何ものもなし」。川田順の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺と、京都府京都市の法然院に分骨されている。経筒を型どった八角形の前者の墓には、直筆による「川田順」の文字が刻まれている。戒名は、「泰順院殿諦道博文大居士」。

by oku-taka | 2021-06-21 22:23 | 文学者 | Comments(0)