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出光佐三(1885~1981)

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出光 佐三(いでみつ さぞう)

実業家
1885年(明治18年)〜1981年(昭和56年)

1885年(明治18年)、福岡県宗像郡赤間村(現在の福岡県宗像市赤間)に生まれる。出光家の先祖は大分県の宇佐八幡宮の大宮司であり、そのせいか、出光は幼き頃から故郷にあった宗像神社を厚く信奉した。小学校の頃から神経症と眼病を患い、読書により自分の頭で考え抜く習慣を身につける。1901年(明治34年)、 福岡市商業学校(現在の福岡市立福翔高等学校)に入学。1905年(明治38年)、神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部)に入学。在学中は外交官になろうと考えていたが、同校校長であった水島銕也に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。また、内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、後に出光興産を創業したときに大地域小売業を展開した。一方、父の家業が傾き始め、家からの仕送りが少なくなったことから家庭教師をはじめる。このとき、家庭教師を務めた子供の親が資産家の日田重太郎であり、神社仏閣を巡拝する趣味を持つ日田は、宗像神社を崇拝する出光に惚れ込む。1909年(明治42年)、 同校を卒業。当時、同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常であり、出光も当時貿易商として躍進し始めた鈴木商店の入社試験を受けた。同期には早々と合格通知が届いたが、出光には来ない。そこで止む無く神戸で小麦粉と石油・機械油などを扱う従業員3人の酒井商店に丁稚として入店。鈴木商店からの合格通知は、酒井商会入りが決まった後に届いたが、酒井商会入りを変えることはなく、学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と言われる。1911年(明治44年)6月20日 、日田重太郎から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私が金を出したことは他言するな」と資金6,000円を渡され、満25歳で独立。福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現在のJXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱った。しかし、時代は電気モーターへの切り替えの時代であり、機械油の需要は減退していた為、日田からもらった資金は3年間で底をつく。そのため、漁民や運搬業者に機械船の燃料油を売り込み、2・3年後には下関と門司港一帯の漁船や運搬船のほとんどを掌握するほどの成功をおさめた。1914年(大正3年) 、満州に渡り、日本最大の国策会社であった南満州鉄道に車軸油を売り込む。当時スタンダード社等の外国油の独占場であったが、国産油の高い品質を実験とデータで示し、納入を成功させた。1919年(大正8年)、酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたって満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1924年(大正13年)、 第一銀行(現在のみずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現在の大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。1929年(昭和4年)、朝鮮における石油関税改正のために奔走。1932年(昭和7年) 、門司商工会議所会頭に就任。1937年(昭和12年)2月、多額納税により貴族院の議員として登院。一方、出光商会は朝鮮、台湾に進出。さらに、日中戦争拡大に伴って中国本土に拠点を拡大し、大会社に成長した。1940年(昭和15年)3月、出光興産株式会社を設立。4月、勲四等瑞宝章を受章。1945年(昭和20年)8月、終戦の2日後に従業員を集め、「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示。多くの企業が人員を整理する中、出光は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。そのため、ラジオ、醤油、酢など売れるものは何でも販売。しかし、いずれも上手くいかず、自身が集めた書画や骨董を売り払い、銀行から可能な限り借金をして従業員に給料を送り続けた。その後、GHQより「旧海軍のタンクの底に残っている油を処理して活用せよ」という指令が発せられ、従業員総出でタンクの底さらい作業に従事。1年半に及ぶ作業で廃油2万キロリットルを汲み取り、石油業界に復帰する足掛かりとなった。1946年(昭和21年)、国際石油カルテル独占を規制することを建言。1947年(昭和22年)公職追放令該当のため貴族院議員資格が消滅。10月、出光が石油配給公団の販売店に指定され、11月には出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発を果たした。1949年(昭和24年)、出光興産が元売業者に指定される。1950年(昭和25年)、出光興産として石油製品の輸入を主張。1951年(昭和26年)、タンカー「日章丸二世」を建造。他社にさきがけて自社タンカーによる原油輸送を開始した。9月、「消費者本位の石油政策」を発表。1952年(昭和27年)、高オクタン価ガソリンを輸入。一方、出光はこの頃、イギリスやアメリカなどの連合国による占領を受け、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自のルートで石油を自由に輸入することが困難なために日本の経済発展の足かせとなっていることと、イラン国民の貧窮を憂慮するようになる。イランに対する経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸を派遣することを決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉者として専務の出光計助を極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。イラン側は、各国の企業と条件面で合意しても実際の貿易には全く結びついていない前例と、当時国際的にはほぼ無名の中小企業に過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたというが、粘り強い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて、日章丸は1953年(昭和28年)3月23日午前9時、神戸港を極秘裏に出港する。航路を偽装するなどしてイギリス海軍から隠れる形で、日章丸は4月10日イランに到着。この時点で世界中のマスメディアに報じられ、国際的事件として認知された。日本においても、武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の海軍力を誇っていたイギリス海軍に「喧嘩を売った事件」として報道され、日本では連日新聞の一面記事で報道された。4月15日、急ぎ石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき海上封鎖を突破して5月9日9時に川崎港に到着した。アングロ・イラニアン社は積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴し、同時に外交ルートでも出光に対する処分圧力が日本国政府にもたらされた。しかし、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカの黙認や、快哉を叫ぶ世論の後押しもあり、行政処分などには至らなかった。裁判でも出光側の正当性が認められ、仮差押え処分の申し立ては5月27日に却下された。アングロ・イラニアン社は即日控訴するものの、10月29日になって控訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝利に終わった。この勝利は日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、出光は東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします」と答えた。しかし、本件におけるイラン側の立役者とも言えるモサッデク首相が同年8月19日に発生したクーデター(アジャックス作戦)により失脚したこと、さらに本件を契機として結果的に石油メジャー各社の結束が強化されたことなどから、出光によるイラン産石油の輸入は継続困難になり、わずか3年後の1956年(昭和31年)に終了したが、これら一連の動きは、世界的に石油の自由な貿易が始まる嚆矢となった。1957年(昭和32年)、当時日本一の規模を誇った徳山製油所を竣工。1959年(昭和34年)、藍綬褒章を受章。1960年(昭和35年)、ソ連石油を輸入。1962年(昭和37年) 、石油の生産調整に反対し、石油連盟脱退を決める。4年後に石油の生産調整・廃止を受けて再び連盟に復帰した。1963年(昭和38年)、石油化学工業へ進出。1966年(昭和41年) 、出光興産の社長を退き、会長に就任。同年、自身の古美術収集をもとに「出光美術館」を設立。1972年(昭和47年) 出光興産の会長を退き、店主に就任。1976年(昭和51年)、フランス共和国文化勲章コマンドールを受章。1981年(昭和56年)3月7日、急性心不全のため死去。享年95。


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2016年(平成28年)、百田尚樹の小説『海賊とよばれた男』がベストセラーとなり、モデルである出光佐三の存在が大きな注目を集めた。斬新な経営方針で産業界に風雲を巻き起こし、原油の輸入から精製、販売まで一貫して行う石油会社を確立。また、株式非公開と銀行借入依存のユニークな経営方式、日本的和と人間尊重を基調とする経営理念の唱道、家族主義および奉仕主義の経営で、業界においてユニークな存在であった。それだけに、出光興産と昭和シェル石油の経営統合を、草葉の陰でどのように思っていることであろうか。一代で民族系最大手の石油会社を築き上げた出光佐三の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺と、福岡県宗像市にある。前者には、「佐三大居士」と刻まれた五輪塔の墓が建つ。

by oku-taka | 2021-06-14 00:21 | 経済・技術者 | Comments(0)