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織田幹雄(1905~1998)

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織田 幹雄(おだ みきお)

陸上競技選手
1905年(明治38年)〜1998年(平成10年)

1905年(明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現在の海田町稲荷町)に生まれる。海田尋常小学校(現在の海田町立海田小学校)へ入学。在学中に安芸郡の体育大会での200m走で優勝している。また、海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校ができて同校を卒業する。1918年(大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(後の県立広島第一中、現在の広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学。1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝しているが、当時同校に陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部する。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったものの3年生からフルバック(DF)や左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになる。後の陸上跳躍競技でもこの左足を使うことになっていった。1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技代表の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、これに参加。この時、走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった。1921年(大正10年)、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した。走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した。1922年(大正11年)9月、大阪で神戸高商主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知ると、矢もたてもたまらず校長室に行き、「全国大会に参加させてください」と直談判。初優勝を果たし、織田個人としても走高跳と走幅跳で優勝した。11月、広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立した。1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出され、初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った。1924年(大正13年)、パリ・オリンピックに出場。五輪日本選手団は陸上・水泳・テニス・レスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況であり、織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした。1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)へ進学し、早稲田大学競走部に所属する。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー(山口直三・大沢重憲・織田・南部忠平)で日本新を記録している。1928年(昭和3年)、早稲田大学商学部に進学。引き続き早大競走部に在籍し、沖田芳夫・南部らと競走部黄金期の立役者となり、早稲田スポーツの先駆者となった。一方、陸上のコーチはいない時代のため、中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した。同年、アムステルダムオリンピックに出場。7月28日に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。8月2日、三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得する。1929年(昭和4年)、早大競走部主将となる。1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社に入社。大阪朝日新聞社運動部に所属した。同年、第1回一般対学生陸上競技大会(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した。1932年(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが選手寿命を縮める結果となった。同年、ロサンゼルスオリンピックが開幕。織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった。以降、怪我もあって陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった。その後も陸上競技指導者として活躍し、主に朝日新聞・毎日新聞主催で県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した。1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ、陸上競技愛好家が全国から集い、織田も走高跳に出場した。同日、日本陸上競技連盟(JAAF)が発足し、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する。1948年(昭和23年)、日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任。1949年(昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に古橋廣之進ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学。そこで、今後はスピード時代であると痛感し、陸上界に進言した。同年、米国体育協会(AAU)のダニエル・J・フェリス事務局長、GHQ民間情報教育局(CIE)のウィリアム・ニューフェルド(英語版)体育官に交渉し、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収する。招かれたスペインでは、ルイス・フェリペ・アレタに跳躍技を指導した。1950年(昭和25年)、国際陸上競技連盟(IAAF)への復帰が許され、IOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられた。これを機に、男女別に正月返上の強化合宿を行う。1951年(昭和26年)、戦後初の海外遠征となったニューデリーアジア競技大会から1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック、1954年(昭和29年)マニラアジア競技大会まで陸上競技日本代表監督を務める。1958年(昭和33年)、国立霞ヶ丘陸上競技場が開場。オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、トラック内に優勝記録と同じ長さの高さ15m21cmの「織田ポール」(後述)が建てられた。また、こけら落としとなった同年開催の東京アジア競技大会の聖火ランナー最終走者を務め、聖火台に点火した。1959年(昭和34年)、JAAF強化委員長に就任し、東京オリンピックまでの5年間の強化を一任された。同年、紫綬褒章を受章。1960年(昭和35年)のローマオリンピックでは入賞者0と惨憺たる成績で、織田は中体連・高体連・学連・実業団という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶ。また、専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めた。特に世界的なコーチといわれたアーサー・リディアードのマラソントレーニング方式は、高橋進や中村清らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与した。一方、陸上界から完全に引退していた小掛照二をJAAF強化コーチとして復帰させたり[59][60]、棒高跳の盛田久生のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせるなど、ギリギリまで陸上強化に尽力した。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、円谷幸吉をマラソンに転向させ、円谷、君原健二、寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した。1965年(昭和40年)、早稲田大学の教授に就任。また、IAAF技術委員などを務め、長く後進を指導し、選手育成に尽力した。国際陸連の技術委員を長く務めた織田の理論家としての名声は海外でも高く、東京・渋谷の自宅に教えを請いに来る人は日本人より外国人の方が多かった。1976年(昭和51年)、IOCオリンピック功労章を受章。1980年(昭和55年)、織田を会長に日本マスターズ陸上競技連合が創立。1988年(昭和63年)、陸上界初の文化功労者に選出。晩年は妻の死を期に藤沢市鵠沼の有料老人ホームに入居。1998年(平成10年)12月2日、湘南鎌倉総合病院で死去。享年93。


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1928年のアムステルダムオリンピック大会において三段跳びで優勝し、日本人初の金メダリストとなった織田幹雄。外国人選手との体格の違いを克服し、3大会連続で金メダルを獲得。「陸上の神様」「日本陸上界の父」と呼ばれた。戦後はコーチとして活躍し、東京オリンピックでは陸上チームの総監督を務めた。陸上競技の普及に尽力した織田幹雄の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺にある。五輪塔の墓には「精進」とあり、左側に墓誌、右側に織田のレリーフと略歴が刻まれたモニュメントが建つ。戒名は「天授院金竜宗幹居士」。

by oku-taka | 2021-05-22 14:27 | スポーツ | Comments(0)