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大松博文(1921~1978)

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大松 博文(だいまつ ひろふみ)

元バレーボール日本女子代表監督
1921年(大正10年)〜1978年(昭和53年)

1921年(大正10年)、香川県綾歌郡宇多津町に生まれる。坂出商業学校3年生のときにバレーボール部に入り、本格的に活動を始める。1938年(昭和13年)、関学高商(現在の関西学院大学)商学部に進学。在学中、バレーボール部の全盛時代を担い、全日本総合で2度の優勝。また、大日本紡績(後の日紡、現在のユニチカ)尼崎工場の女子バレーボールチームの監督の勧めで、同工場のコーチも務める。1941年(昭和16年)に卒業し、大日本紡績に入社。しかし、12月に召集され、中国・ビルマ・ラバウルを転戦する。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に従ってくれるよう、自ら率先して行動をとった。その後、第31師団下に配属され、インパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人となった。これら経験が、大松の性格を大きく変える出来事となった。戦後、ニチボーへ復帰。1953年(昭和28年)11月27日、大日本紡績株式会社貝塚工場に日紡代表女子バレーボールチームを編成することが決定し、大松が監督に就任。「2年で日本一のチームを」という思いをもとに、1954年(昭和29年)3月15日に貝塚工場女子バレーボールチーム(通称「日紡貝塚」)が発足された。結成当時のチームは新卒生を中心にしたチーム、小さな大会では活躍したが、全国的な大会では8位に入るのがやっとであったが、たとえ女子であっても徹底したスパルタ式のハードトレーニングで、「鬼の大松」と呼ばれるほど世間を騒がせた。しかし、このハードトレーニングの効果は、1955年(昭和30年)に入ると見えはじめ、チーム発足後約1年余りで、全日本9人制バレーボール実業団女子選手権大会で初優勝。同年には、全日本バレーボール女子9人制総合選手権大会、国民体育大会でも優勝し、国内の3つのタイトルを獲得した。1958年(昭和33年)には当時の日本国内の四大タイトル(全日本総合、全日本実業団、都市対抗、国民体育大会)を独占した。チーム結成5年目にして国内大会を制覇し、海外を目指すようになるが、当時の日本は9人制が圧倒的であったのに対して、世界はほとんどの国が6人制のバレーを採用していた。そのため、日紡貝塚は9人制を6人制に切りかえ、1960年(昭和35年)にブラジルで開催される第3回世界バレーボール選手権大会を新しい目標にたて、猛練習を続けた。結果、6人制の国際試合としては初参加となった同大会で準優勝となる。1961年(昭和36年)、欧州遠征で日紡貝塚は24連勝を記録。ソ連からの外電も彼女たちの偉業を認め、日紡貝塚に「東洋の台風」「東洋のまほうつかい」の異名をつけて世界的なヒロインとして伝えた。出場メンバーは以下の9名である。1962年(昭和37年)の第4回女子世界選手権では、すでに東洋の魔女として恐れられていた日本が、宿敵のソ連にどこまで迫ることができるかが最大の焦点となっていた。柔道の受け身に似た回転レシーブ、手元で微妙に揺れる変化球サーブを繰り出して最終戦のソ連との全勝同士の対決はセットカウント3-1で勝利し優勝。日本の団体球技が世界大会で優勝するのはこれが初めてであったため、社会的なニュースとして日本で大きく取り上げられた。この大会後、選手たちは結婚適齢期を迎えたことから大松と共に引退を表明していた。しかし、1964年(昭和39年)の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、「是非東京オリンピックまで続けて欲しい」と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参したり、一般ファンからも大松率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5,000通に亘って大松博文へ宛てて送られるなどして東京五輪へ向けて周囲の声が高まったことなどを受け、大松の「俺についてこい」の一言で選手達はオリンピックまで続けることを決意した。その後、オリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくった。1964年(昭和39年)10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続き、テレビ放送にて決勝戦実況中継担当アナウンサーであった鈴木文彌が「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。日本も「回転レシーブ」に象徴される守備を重視した戦法を続け、最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。オリンピックでの優勝でバレーボールはブームとなり、また、選手への「俺についてこい!」「なせば成る」などの名文句からは著書を生み出し、「俺についてこい!」は同タイトルで映画化もされた。1964年(昭和39年)末、ニチボーを退社。1965年(昭和40年)、周恩来の招きにより中国を訪問し、中国女子バレーチームの礎に貢献した。帰国後、電通に入社した後、1968年(昭和43年)第8回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補し初当選する。1974年(昭和49年)、再選を目指して第10回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党公認で立候補するも落選した。その後は再びバレーボール界に戻り、各地で指導活動を行う他、イトーヨーカドーバレーボール部の創部に参加。技術顧問を務めた。その直後の1978年(昭和53年)11月23日午後11時半頃、ママさんバレーの指導のため出張していた岡山県井原市の旅館「一新」で心筋梗塞を訴えて緊急搬送。11月24日午後2時、岡山県井原市の井原病院で死去。享年57。


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1964年の東京五輪において、圧倒的な力で金メダルを獲得し、バレーボールの一大ブームを巻き起こした「東洋の魔女」。その最強チームを率いたのが、「鬼の大松」と評された大松博文である。今や当たり前となった「回転レシーブ」も「落としサーブ」「時間差攻撃」などを編み出し、背が低く手足の短い日本人を勝利に導いた。「なせば成る」を信念に、日本のバレー界の礎を築いた大松博文の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺にある。五輪塔の墓には「大松 山田」とあり、右側に墓誌、左側手前に大松の略歴と「根性」と彫られたバレーボール型が上に乗せられた「大松博文之碑」が建つ。戒名は「最勝院克堂博文居士」。

by oku-taka | 2021-05-22 13:51 | スポーツ | Comments(0)