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赤瀬川原平(1937~2014)

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赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい)

前衛芸術家・作家
1937年(昭和12年)〜2014年(平成26年)

1937年(昭和12年)、神奈川県横浜市中区本牧町に生まれる。本名は、赤瀬川 克彦(あかせがわ かつひこ)。一家は父親の転勤であちこちに移り、幼稚園時代から大分県大分市で育つ。幼少は内気な引っ込み思案で寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。1945年(昭和20年)、大分市立金池小学校3年生の時に敗戦。父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝う。小学生時代、絵が好きな雪野恭弘(のち画家)と親友になる。雪野とは、大分市立上野ヶ丘中学校時代、そして、武蔵野美術学校でも同窓として交際が続く。また、5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていたことから、中学生の時に磯崎が創立していた絵の同好会「新世紀群」に雪野とともに参加。ここで4歳年上の吉村益信と知り合う。大分県立大分舞鶴高等学校に進学して2か月後、一家は名古屋に引越しし、愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。在学中は油絵を習う。卒業後は、吉村益信の勧めで武蔵野美術学校油絵科に進む。だが、仕送りは2か月でとまり、サンドイッチマンのアルバイトで食いつなぐ。そのアルバイト仲間からは、本や映画について学んだ。1956年(昭和31年)、上京していた姉・晴子と一緒に住み、姉の誘いで砂川基地反対闘争に参加する。1958年(昭和33年)、第10回読売アンデパンダン展に初出品。以後、同展が終了するまで出品を続ける。1959年(昭和34年)、数年来の持病の十二指腸潰瘍の手術のため名古屋に戻る。1960年(昭和35年)、吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加。「ヴァギナのシーツ」など、ゴム・チューブを素材としたオブジェを製作した。この頃、篠原有司男の母親に姓名判断をしてもらったところ、「下の名前の画数が足りない」といわれ、「克彦」よりさらに画数が少ない「原平」をペンネームとする。1962年(昭和37年)、ポスターカラーで描いた絵画「破壊の曲率」でシェル美術賞に入選。同年、松田政男・山口健二・川仁宏らが企画した自立学校に学生として参加。1963年(昭和38年)、高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センターを結成。「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行い、個人としても扇風機などの身の回りの品物を包装紙で包む「梱包作品」を制作。このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って宇宙全体を梱包したと称する「宇宙の缶詰」に至る。1963年(昭和38年)1月、「千円札の表だけを一色で印刷したもの」(模型千円札)に手を加えたものを作品として発表する。また、千円札を詳細に観察し肉筆で200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学」(殺す前に相手をよく見る)を制作し、3月に読売アンデパンダン展で発表した。しかし、平岡正明・宮原安春ら犯罪者同盟が発行した単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』により、平岡らが猥褻図画頒布で逮捕された際、同著に赤瀬川の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、赤瀬川の作品は警察の知るところになる。その後、曲折があり、1965年(昭和40年)に「模型千円札」が通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。弁護人には瀧口修造といった美術界の重鎮たちが名を連ね、話題となった。1967年(昭和42年)6月の東京地方裁判所の一審で「懲役3月、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。控訴ののち1970年(昭和45年)に執行猶予つきの有罪確定。その後、前衛芸術からは身を引くようにしていく。この間、漫画評論家石子順造の紹介で、当時東京都立大生だった松田哲夫(のちに筑摩書房に入社して編集者となる)と出会って意気投合。松田とは、マッチ箱のラベル絵の収集、宮武外骨の雑誌の収集、今和次郎の考現学の本の収集などを熱中して行う。また、「千円札裁判」の事務局長を務めた川仁宏(現代思潮社)が創設した「美学校」で、「絵・文字工房」の講師をつとめた。講義内容は赤瀬川がその時点で熱中していたもの(「マッチのラベル絵」「宮武外骨」「考現学」「新聞の尋ね人案内」「トマソン」「1円で何が買えるか」など)であった。その教室からは、平口広美・南伸坊・渡辺和博・泉晴紀・久住昌之・森伸之・上原ゼンジ・まどの一哉・井上則人らのクリエイターが輩出している。一方、『ガロ』に掲載された「お座敷」で漫画家デビューし、以降『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)や『月刊漫画ガロ』(青林堂)などで漫画家として活動。つげ義春の「ねじ式」のパロディである予告漫画「おざ式」などを発表した。『朝日ジャーナル』に連載した『櫻画報』では、「櫻画報こそ新聞であり、この周りにある『雑誌状の物』は櫻画報の包み紙である」と主張。最終回では「アカイ/アカイ/アサヒ/アサヒ」という国民学校時代の国語の教科書の例文をパロディ化し、挿絵の水平線から昇る太陽を『朝日新聞』のロゴに描き換えたイラストを描いたが、ヌードの表紙と赤瀬川の「櫻画報」が読者に誤解を与えかねないことを理由として、当該号は自主回収された。この事件で編集長が更迭された他、朝日新聞出版局では61名の人事異動がなされ、『朝日ジャーナル』自体も2週間にわたって休刊した。その後、『櫻画報』の連載は『ガロ』等で復活し、他にも様々な雑誌を「雑誌ジャック」した。また、松田哲夫・南伸坊とともに結成した「櫻画報社」で、「論壇の人間関係図」等を発表した。1972年(昭和47年)、南伸坊、松田哲夫と東京・四谷(新宿区四谷本塩町)の旅館・祥平館脇の道を歩いているときに、上り下りする形態と機能はありながら、上った先には出入り口が無く、降りてくるしかない立派な階段を発見。翌年にら、西武池袋線江古田駅でベニヤ板で塞いである使われなくなった出札口(切符売り場の窓口)に気付いた。そのベニヤ板は、長年の銭の出し入れでくぼんだ石の表面にあわせて必要以上に律儀に、微妙な曲線に切断されていた。また、南伸坊が、お茶の水の三楽病院で、きわめて堂々とした造りでありながら、出入り口だけがきっちりとセメントでふさがれた通用門を発見。こうした物件は「四谷の純粋階段」「江古田の無用窓口」「お茶の水の無用門」と名付けられ、共通する概念として浮上した「超芸術」=《芸術のように実社会にまるで役に立たないのに芸術のように大事に保存されあたかも美しく展示・呈示されているかのようなたたずまいを持っている、それでありながら作品と思って造った者すらいない点で芸術よりも芸術らしい存在》の例として認識された。「超芸術」の中でも不動産に付着するものをひと言で言い表す愛称、通称、のようなもの、固有名詞として、「トマソン」という名前が与えられた。トマソンの語源は、プロ野球・読売ジャイアンツ元選手のゲーリー・トマソンに由来し、元大リーガーとして移籍後1年目はそこそこの活躍を見せたものの、2年目は全くの不発であるにもかかわらず四番打者の位置に据えられ続けた。空振りを見せるために四番に据えられ続けているかのようなその姿が、ちょうど「不動産に付着して(あたかも芸術のように)美しく保存された無用の長物」という概念を指し示すのにぴったりだったため、当時、赤瀬川が講師をしていた美学校「考現学教室」の生徒の議論の中でこの名前が決まった。この概念が赤瀬川の連載のあった白夜書房の雑誌『写真時代』で1982年(昭和57年)に発表され、「考現学教室」の生徒たちの「探査」活動や赤瀬川自身の採集による「物件」の写真が赤瀬川の筆で発表。読者からの物件の報告を誌上で発表解説するというかたちがとられると一つのブームとなり、一挙に「トマソン」の概念が広まった。1976年(昭和51年)、『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚不二夫・赤瀬川原平・奥成達・高信太郎・長谷邦夫)と名乗り、「バカなことを真面目にやる」連載を行った。この一員として、LP「ライブ・イン・ハトヤ」にも参加した。1978年(昭和53年)には、赤塚不二夫と全日本満足問題研究会と名称を変え、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表した。一方、篠原勝之の紹介で、中央公論社の文芸雑誌『海』の編集者だった村松友視と知り合い、篠原、南伸坊、糸井重里らとともに毎月村松宅に押しかけ「ムラマツ宴会」と称する飲み会を行う。そうした縁で、村松から「純文学を書いてほしい」と依頼され、『海』に赤瀬川原平名義で『レンズの下の聖徳太子』を発表。しかし、理屈っぽくすぎたせいかあまり反響はなかった。続いて、『婦人公論』で赤瀬川にカットの仕事を依頼していた編集者の田中耕平から「もっと気楽に書いたら」と助言され、テーマのない身辺小説『肌ざわり』を執筆。名義はペンネームの「尾辻克彦」とする。これが、1979年(昭和54年)9月に中央公論新人賞を受賞し、雑誌『中央公論』に掲載された。その後、『文學界』1980年(昭和55年)12月号に発表された短編『父が消えた』で、第84回芥川賞を受賞。さらに、1983年(昭和58年)には『雪野』で野間文芸新人賞を受賞した。その後、純文学系の文筆活動を尾辻克彦名義で行い、尾辻・赤瀬川の「共著」などを出したりしたが、小説集『ライカ同盟』を最後に尾辻名を使用することはなくなった。1985年(昭和60年)、『学術小説 外骨という人がいた』を白水社から刊行。宮武外骨リバイバルを仕掛ける。1986年(昭和61年)には吉野孝雄と編集した『滑稽新聞』の再編集復刻版を筑摩書房より刊行した。同年、トマソンやマンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を創設。1987年(昭和62年)に発表した『東京路上探険記』で講談社エッセイ賞を受賞した。後年「路上観察学会」会員の藤森照信(建築史家・建築家、東京大学教授)に自らの住まいの設計を任せ、屋根に韮を生やした「ニラハウス」を建てた。1989年(平成元年)、勅使河原宏と共同脚本を担当した映画『利休』で日本アカデミー賞脚本賞を受賞。1993年(平成5年)、『仙人の桜、俗人の桜』でJTB旅行文学大賞を受賞。この頃、雑誌ビッグコミックスピリッツの「馬鹿王」(正確には馬の点が5つ)連載で、馬鹿王様のイラストを担当。「ホイチョイプロダクションズ いたずらの天才の息子」、「いとうせいこうの盗魂」に次ぐ投稿コーナーとなる。1996年(平成8年)、『新解さんの謎』を発表。三省堂の『新明解国語辞典』を一人の個性的な人物が著した“読みもの”に見立て、話題を集めた。1998年(平成10年)、『老人力』を発表。高齢化社会が進む中で、老人への新しい視点を提供し、筑摩書房はじまって以来のベストセラーとなった。同年末の流行語大賞では、最後の10候補に入った。その他にも、カメラ(特に中古カメラやステレオカメラ)に関する著作を多数著し、ライカ同盟や脳内リゾート開発事業団を結成するなど、幅広く活動した。しかし、2011年(平成23年)に胃癌による全摘手術を行って以降、脳出血や肺炎などで体調を崩しており、療養生活を余儀なくされる。2014年(平成26年)10月25日夜に容体が悪化。10月26日午前6時33分、敗血症のため東京都町田市の病院で死去。享年77。


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前衛芸術家、作家、路上観察家、エッセイストなど実に多彩な活動を見せた赤瀬川原平。「観察」を表現の原点とし、何気ない日常のなかに芸術を見出す作品を数多く発表し、戦後のサブカル史に大きな足跡を残した。「観察」を極めるあまり、千円札を拡大模写した作品で通貨模造の罪に問われ、執行猶予つきの有罪判決を受けるという悲劇にも見舞われたが、この失敗を「言葉にするおもしろさに目覚めた」キッカケとして小説を書き始め、芥川賞を獲ってしまうのが何とも恐ろしい。この他、一見何の価値もなさそうな長物を芸術として捉えた「トマソン」が一大ブームとなったり、老化による衰えというマイナス思考を「老人力がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転の発想を提唱した『老人力』がベストセラーになったりと、持ち前のユーモアと面白がりの精神は多くの人に煌びやかな何かを与えていたのかもしれない。知的探究心の塊ともいえる赤瀬川原平の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺にある。「どうせならもっと楽に、楽しく墓参りがしたい」というアイデアのもと、建築家・藤森照信によって造られた墓は、鉄平石のかけらを土饅頭らしく積み上げて土を練り込み、周りに苔を張り巡らせ、天辺に五葉松を施したユニークな墓となっている。手前の平らな自然石には「赤瀬川」とあるのみで、墓誌はない。戒名は「慈眼院原心和平居士」。

by oku-taka | 2021-05-05 10:26 | 芸術家 | Comments(0)