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赤瀬川隼(1931~2015)

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赤瀬川 隼(あかせがわ しゅん)

作家
1931年(昭和6年)〜2015年(平成27年)

1931年(昭和6年)、三重県四日市市に生まれる。本名は、赤瀬川 隼彦(あかせがわ はやひこ)。父親の転勤で,名古屋・横浜・芦屋・門司と各地を転々とし、10歳から18歳までの青少年期を大分市で過ごす。終戦直後、旧制中学4年から新制の大分第一高等学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)に2年時編入。少年時代から文章を書くのが好きだったが、文学部に勧誘されたものの、部誌に載る創作が小さなことを無理にひねって深刻がっている感じがして、そういう雰囲気の合評の場にはとても加わる気になれなかったことから、新聞部に入る。3年生のときには編集長も務め、内容をめぐって顧問の教師と衝突したり発行禁止にされたりもした。そうした中で漠然と大学を出てシナリオライターか新聞記者になりたいと思うようになる。しかし、父が財閥解体のあおりを食って三井系の会社を解雇されてしまい、一家の経済状態がどん底になってしまったことから大学進学を断念。東京に出たかったので、高校に来ていた就職情報で大手都市銀行が「勤務地希望可、旅費支給」と募集しているのを見つけて住友銀行に入る。仕事の傍ら夜間学校にも通っていたが、やがて労働組合を唯一の自由な場所として見出し、その機関紙に投稿するようになる。1954年(昭和29年)、北九州に転勤となり、週末ともなれば福岡の平和台球場へプロ野球観戦に通い出す。以後、転居するたびに地元のチームを応援することになる。もともと、少年時代に父親に連れられて何度か甲子園球場へ旧制中学の試合を見に行っており、プロ野球を見始めたのは大分で終戦を迎えてからで、最初はジャイアンツのファンになる。就職で上京したときには、国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルト)の金田正一に魅せられ、1970年代に名古屋にいたときには中日ドラゴンズ、広島にいたときには広島カープがそれぞれ優勝してファンになっている。銀行勤務16年を経て、外国語教育機関であるラボ教育センターの運営会社のテックに勤務。後に言語交流研究所(テックから榊原陽らが独立して作ったヒッポファミリークラブの関連組織)に勤務し、主に広報の仕事に従事。その後は全集物のセールスマンなどに従事した。1983年(昭和58年)、奇想天外な野球小説『球は転々宇宙間』で作家デビュー。同作で第4回吉川英治文学新人賞を受賞した。同年、『捕手はまだか』で第88回直木賞候補、1984年(昭和59年)、『潮もかなひぬ』で 第90回直木賞候補、1985年(昭和60年)、『影のプレーヤー』第92回直木賞候補、1988年(昭和63年)、『オールド・ルーキー』『梶川一行の犯罪』『それぞれの球譜』で第98回直木賞候補となる。その後も中学校の国語教科書にも掲載されている『一塁手の生還』をはじめ、野球をテーマにした小説を多く発表。1995年(平成7年)、トレードされたプロ野球選手などを描いた『白球残映』で第113回直木賞を受賞した。63歳8ヶ月での受賞は歴代4番目に高齢である。その後、作品の幅を広げ、『甚五郎異聞』などの歴史小説やミステリー、恋愛小説にも味わい深い小説を残した。映画好きでも知られ、エッセー『あ、またシネマ彗星だ』などを執筆した。晩年は体調を崩し、病院で療養していた。 2015年(平成27年)1月26日午後10時33分、肺炎のため神奈川県内の病院で死去。享年83。


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野球小説の第一人者として活躍した赤瀬川隼。野球にまつわる人間模様を通して男の美学を追求した短編集『白球残映』で直木賞を受賞し、芥川賞を受けた弟の赤瀬川原平と共に、芥川賞・直木賞をまたぐ唯一の作家となった。また、戦争で家族を失った少年と戦地から帰還した兄との交流を描いた『一塁手の生還』は、中学校の国語の教科書に掲載された。「十二球団全部のファン」を公言し、観戦のみならずプレーも愛した野球作家の墓は、神奈川県鎌倉市の東慶寺にある。「どうせならもっと楽に、楽しく墓参りがしたい」という弟・原平のアイデアで、彼とつながりの深い建築家・藤森照信によって造られた墓は、鉄平石のかけらを土饅頭らしく積み上げて土を練り込み、周りに苔を張り巡らせ、天辺に五葉松を施したユニークな墓となっている。手前の平らな自然石には「赤瀬川」とあるのみで、墓誌はない。

by oku-taka | 2021-05-05 10:17 | 文学者 | Comments(0)