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武原はん(1903~1998)

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武原 はん(たけはら はん)

舞踊家
1903年(明治36年)〜1998年(平成10年)

1903年(明治36年)、徳島県徳島市籠屋町に生まれる。本名は、武原 幸子。家は花街の裏手にあり、父親はブリキ職人だった。1915年(大正4年)、一家で大阪に移住。まもなく生計を助けるため大阪宗右衛門町の大和屋芸妓学校に入学。山本千代に師事し、山村流の上方舞を修行する。14歳で芸者として独立し、20歳まで大和屋で働いた。1930年(昭和5年)、青山二郎の後妻として結婚。青山を通じて小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの交流が始まる。1931年(昭和6年)、上京し、料亭「灘万」の若女将を務める。また、6世藤間勘十郎に師事し、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。1932年(昭和7年)、7代坂東三津五郎、6代藤間勘十郎の支持を得て、米川文子の地唄舞研究会で『雪』を舞い、絶賛される。1934年(昭和9年)、青山と離婚。心の癒しを求め、写経を高野山の柴田全乗に、俳句と写生文を高浜虚子に師事。俳号を「はん女」とする。また、「はん弥」の名で新橋芸者となる。1940年(昭和15年)頃には歌舞伎舞踊の2世西川鯉三郎に師事。すぐれた容姿を生かした舞姿で、上方舞を独自の新鮮な舞台の舞として仕上げた。1946年(昭和21年)、木挽町に再建された「灘万」を引き受けて女将となる。1950年(昭和25年)、三越名人会で舞った地唄舞『雪』が評判になる。1952年(昭和27年)、「舞の会」を開き、舞踊家として本格的にスタート。以来42年にわたって歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場などで開催。美しい容姿と精緻な技芸で多くの舞踊を発表し、「動く浮世絵」ともいわれる独自の世界をつくりあげた。1952年(昭和27年)、芸術祭賞奨励賞を受賞。1953年(昭和28年)、赤坂新町に料亭「はん居」を開店(のちに六本木に移転)。1954年(昭和29年)、二度目となる芸術祭賞奨励賞を受賞。1955年(昭和30年)、「ホトトギス」の同人となる。1956年(昭和31年)と1957年(昭和32年)には芸術祭賞を受賞。1965年(昭和40年)、舞踊芸術賞を受賞。1966年(昭和41年)、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1967年(昭和42年)、「一代さらい会」で毎日芸術賞を受賞。1969年(昭和44年)、紫綬褒章を受章。1972年(昭和47年)、菊池寛賞を受賞。1975年(昭和50年)、勲四等宝冠章を受章。1985年(昭和60年、)日本芸術院会員に選出。 1988年(昭和63年)、文化功労者に選出。90代になっても厳しい稽古を続け、早朝からの発声練習を欠かさなかったが、1998年(平成10年)2月5日に心臓麻痺のため東京・六本木の自宅で死去。享年95。


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流派に属することなく活躍した上方舞の日本舞踊家・武原はん。気品に満ちた美しい舞姿は「動く錦絵」「動く浮世絵」と高く評価され、小倉遊亀をはじめ著名画家の作品ともなった。上方のお座敷舞を舞台芸術にまで高めた武原はんであったが、流派に属さない、自ら流派を立てて弟子を取らないというポリシーを守り、終生個人舞踊家としての身を貫いた。その生涯を地唄舞に捧げた武原はんの墓は、神奈川県鎌倉市の瑞泉寺にある。2基ある墓のうち、はんが眠る真ん中の墓には「武原家先祖代々墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「天舞院殿地踊至達究盡大法尼」。

by oku-taka | 2021-04-11 13:39 | 芸術家 | Comments(0)