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森雅之(1911~1973)

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森 雅之(もり まさゆき)

俳優
1911年(明治44年)〜1973年(昭和48年)

1911年(明治44年)、当時札幌で教職を務めていた作家・有島武郎の長男として、北海道札幌郡上白石村(現在の札幌市白石区)に生まれる。本名は、有島 行光(ありしま ゆきみつ)。3歳まで札幌で過ごし、1914年(大正3年)に母の結核療養のため、旧旗本屋敷だったて東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の有島邸に家族揃って転居。しかし、1916年(大正5年)に母を結核で亡くし、1923年(大正12年)には父も長野県北佐久郡軽井沢町の別荘で雑誌『婦人公論』の記者・波多野秋子との心中で失い、弟2人と共に叔父の有島生馬らの下で育てられる。1928年(昭和3年)、旧制成城高等学校(現在の成城学園)に入学。在学中に築地小劇場『虫の生活』を観て舞台俳優を志し、1929年(昭和4年)に劇団築地小劇場へ入団。1930年(昭和5年)、築地小劇場の『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラ出演する。1931年(昭和6年)、旧制成城高等学校を卒業。京都帝国大学(現在の京都大学)文学部哲学科美学美術史専攻に入学するが、1932年(昭和7年)に中退。慶応仏文の金杉惇郎、フランス帰りの長岡輝子を中心とした都会派のモダンな学生劇団「テアトル・コメディ」に参加し、第1回公演から芸名の森雅之を名乗る。『芝居は誂向き』などの演技で将来を嘱望されるが、胸部のカリエスのため、4年間ほど闘病生活を送った。1936年(昭和11年)6月の劇団解散後は、久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)らが1937年(昭和12年)9月に結成した文学座に参加。コメディや恋愛劇の洗練された演技で注目を浴び、北里柴三郎を演じた『怒濤』の老け役で絶賛された。1940年(昭和15年)、杉村春子、三津田健と文学座の常任委員となる。1942年(昭和17年)、文学座が提携出演した東宝の島津保次郎監督『母の地図』に脇役で映画初出演。当初、映画出演に消極的だったが、戦争中とあって劇団活動は困難を極めており、以後もあまり目立たない役で映画に出演する。しかし、1944年(昭和19年)に文学座を退座。1945年(昭和20年)、戦後初の新劇『桜の園』に出演。また、黒澤明監督に請われて『続姿三四郎』で四天王の一人、『虎の尾を踏む男達』では亀井役を演じた。その後、東京芸術劇場(東芸)の結成参加を経て、1947年(昭和22年)に劇団民藝の前身「民衆芸術劇場」(第一次民藝)の結成に加わる。同年、吉村公三郎監督の映画『安城家の舞踏会』で、没落貴族のニヒリストの長男を演じ、毎日映画コンクール男優演技賞を受賞。それまでの日本映画には見られなかったようなインテリジェンスを感じさせる俳優として一躍話題となる。1948年(昭和23年)、再び吉村監督の『わが生涯のかがやける日』に主演。戦後の混乱期をニヒリストとして自暴自棄に生きている元青年将校役を演じ、知的で屈折した森のイメージ通りの役で、山口淑子との濃厚なキスシーンは話題となった。1949年(昭和24年)、思想的な内紛に嫌気がさして「民衆芸術劇場」を退団。1950年代以降はフリーの立場で文学座などの新劇の舞台に立ち、また、新劇の枠をこえて劇団新派や東宝現代劇などの芝居にも積極的に出演した。また、本格的に映画界へ進出し、黒澤明監督『羅生門』『白痴』、木下恵介監督『善魔』、溝口健二監督『武蔵野夫人』『雨月物語』、成瀬巳喜男監督『あにいもうと』など、演技派のトップスターとして活躍した。1955年(昭和30年)、成瀬巳喜男監督『浮雲』の演技で第1回のキネマ旬報主演男優賞を受賞。1956年(昭和31年)、芸術祭奨励賞受賞作『勝利者』でテレビに初出演。以降はテレビドラマにも活躍の場を広げた。1960年(昭和35年)、黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』、市川崑監督『おとうと』の演技で毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。1961年(昭和36年)、新派『十三夜』で花柳章太郎と共演。その後、新派に招かれ、1962年(昭和37年)より所属。水谷八重子の相手役などで美しい型を見せた。1973年(昭和48年)、日本テレビ『恋は大吉』に出演中の6月2日、自宅で倒れ、慈恵医大付属病院に入院。病院では「やっと芝居がわかってきたというのに、ここで死ななければならないとはなあ」と何度も痛嘆していたという。10月7日午前7時20分、直腸癌のため死去。享年62。東宝現代劇の新春特別公演『女橋』の父親役が最後の舞台出演、同年9月8日放送のNHKドラマ『コチャバンバ行き』が遺作となった。両作出演時には既に病魔に冒されており、その身を押しての仕事であった。


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知的で彫りの深い端整な顔立ちと、憂いと翳りを含んだ独特の存在感で日本映画黄金期を代表する俳優となった森雅之。1995年(平成7年)にキネマ旬報が行なった「日本映画オールタイム・ベストテン」の「男優部門」で第1位に選出され、2000年(平成12年)に発表された「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の3位、2014年(平成26年)発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優2位になるなど、没してもなおその評価は高い。また、共演した女優からも賞賛されており、田中絹代や高峰秀子らが、インタビューや自著などで森の演技力の高さを幾度となく語っている。特に有名なのが、暴君として恐れられていた映画監督の溝口健二が、『雨月物語』で会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し、火を点けて労ったというエピソード。このように、業界からも高く評価された森雅之。戦後のスクリーンを彩った名優の墓は、神奈川県鎌倉市の材木座霊園にある。当初は多磨霊園にある父・有島武郎の墓に納められたが、後に武郎の弟で画家の有島生馬が眠る材木座霊園に改葬された。3基ある墓のうち、森雅之の墓は入口正面にあり、墓には戒名と右側面に墓誌が刻む。戒名は「聰德法堂居士」。

by oku-taka | 2021-03-14 22:56 | 俳優・女優 | Comments(0)