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大沢啓二(1932~2010)

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大沢 啓二(おおさわ けいじ)

プロ野球選手・監督・評論家
1932年(昭和7年)〜2010年(平成22年)

1932年(昭和7年)、神奈川県藤沢市に生まれる。本名は、大沢 昭(おおさわ あきら)。学生時代は悪童で鳴らし、平塚工業学校に入学するも、地元で起こした暴力事件が原因で中退。長兄で、中部日本軍のプロ野球選手だった大沢清の斡旋で、清の母校である神奈川県立商工高校に編入。「兄の顔に泥を塗るわけにはいかない」との思いから野球を始める。1年次は夏の甲子園県予選決勝で、佐々木信也がいた湘南高に敗れる。2年次の1950年(昭和25年)にはエースとして夏の甲子園へ出場。1回戦は仙台一高に大勝するが、2回戦で宇都宮工の神田昌男(のち大洋ホエールズ)、吉成武雄のバッテリーに抑えられ惜敗。同年の秋季関東大会県予選決勝に進むが、湘南高のエース衆樹資宏の前に敗退した。3年次の1951年(昭和26年)は、夏の甲子園県予選2回戦で逗子開成高と対戦。この試合で、自信を持って投じたストライクをボールと判定されたり、確実にセーフだと思ったタッチプレーを二度もアウトにされるなど、球審の判定に不服を覚える。試合は延長戦となり、最後はフォアボールの押し出しでサヨナラ負けしてしまった。試合終了後、大沢は球場のトイレで偶然その審判と遭遇し、他の選手1名とともに蹴りつけた結果、神奈川商工高は1年間の出場停止処分を受けた。後日、大沢が蹴りつけた審判が自宅を訪れ、自分が立教大学硬式野球部OBの菅大一であると名乗った上で、「君のような野球がうまくて元気のある選手が立教大学には必要なんだ」とスカウトされた。その後、野球推薦で立教大学文学部へ進学。東京六大学野球リーグに1年春のリーグ戦から外野手として出場したが、直後に「出身高校が1年間の出場停止処分を受けているから」という理由で半年間出場停止となった。1953年(昭和28年)、春季リーグでエースの小島訓一を擁し優勝を経験。同年の全日本大学野球選手権大会も、決勝で穴吹義雄らのいた中大を降し、初優勝を飾る。その後は明大、早大の二強時代となり優勝には届かなかった。リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。大学同期に保坂幸永、古田昌幸、1年下に東実、堀本律雄、矢頭高雄、2年下には後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾がいた。大沢の4年次に、部員に猛練習を課す砂押邦信監督に対して下級生から「監督の辞任か、自分たちの退部」を求める訴えが上がり、大沢は部員の署名を集めて砂押に掛け合ったが、拒否される。やがて総長やOBまで巻き込んだ話に発展し、最終的に砂押は退任した。この立大時代に「レフトゴロ」を成立させたことがある。前位の走者の封殺でなく、打者走者を一塁到達前に刺したことによるレフトゴロは非常に珍しい。1956年(昭和31年)、南海ホークスに入団。登録名は、大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。鶴岡一人監督から勧誘時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされる。南海への入団には長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められており、南海は大沢を通じて長嶋に当時の大学初任給をはるかに超える額を栄養費として渡すことになる。しかし、栄養費としてではなく善意のおごりという形をとっていたため、後に事態を把握した長嶋は反発。長嶋は最終的に読売ジャイアンツに入団し、支給された栄養費の全額も返金した。一方の杉浦は、鶴岡への仁義を通すとしてそのまま南海へ入団した。大沢はこの事件以降、長年に渡り長嶋を裏切り者として敵視した。プロ選手としては頭脳的な守備で鳴らし、1年目から左翼手の定位置を獲得。同年のオールスターゲームにも出場した。1958年(昭和33年)、本来は一塁手であった長谷川繁雄が外野に専念したことからレギュラー争いが激化したため、内野手としても起用される。同年は二塁手として11試合、三塁手、遊撃手として各4試合に先発出場。1959年(昭和34年)には外野手の準レギュラーとしてリーグ優勝に力を添え、同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、4連投4連勝の杉浦と共に日本一に貢献。打者の打球傾向によって守備位置を変えるという、現在では当たり前になっているプレーを行い、要所要所で見せた好守備によって巨人の反撃を断ち、チームの4連勝に大きく貢献した。シリーズ後、滅多なことでは選手をほめない鶴岡が「大沢、本当によくやってくれた」と直々に労い、西鉄の三原脩監督はこのシリーズの総括として、「MVPの杉浦は副賞として自動車を与えられたが、大沢にも小型の自動車を与えるべき」と語っている。また、ライト前ヒットの際に、ボールを拾ってからフェンスに向かって走り、二塁でランナーを補殺するトリックプレーを見せたこともある。1961年(昭和36年)から出場機会が漸減し、1965年(昭和40年)には東京オリオンズへ移籍。移籍の理由について、大沢は著書で、球団から突如スカウトになるよう指示されたためとし、その背景には10年選手制度にかかる前に放出する意図があったからと述べている。大沢は移籍の挨拶に鶴岡の自宅に出向いた際に、メジャーリーグへの移籍の相談に先に来ていた村上雅則に、「こんな冷たいチームに義理立てする必要はない」と言って鶴岡と口論になったという。一方、当時オリオンズの青木一三スカウト部長は、10年選手制度が移籍の原因であることを認めた上で、鶴岡が自ら青木に「獲ってやってくれ」という依頼をしてきたと著書で記している。こうして東京オリオンズに移籍した大沢だが、同年限りで現役を引退した。引退後は東京・ロッテで打撃コーチを務め、1969年(昭和44年)から二軍監督を務めた。1970年(昭和45年)にはイースタン・リーグ優勝に導き、得津高宏を指導した。また、陸上競技短距離走選手だった飯島秀雄のロッテ入団の糸口を作り、入団後にはマンツーマンで指導した。1971年(昭和46年)7月24日、放棄試合のペナルティとして二軍監督に降格となった濃人渉の代行として一軍監督に昇格。最終的に2位となった大沢の手腕は球団に評価され、シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶ。「打力だけでは日本一になれない」と榎本喜八、江藤慎一、アルト・ロペスを放出して野村収、村上公康、外山義明を獲得。高年俸選手を出して「人件費カット」のトレードを断行して、1972年(昭和47年)のシーズンに挑んだが、一度も上位に食い込めず5位に低迷。前年に193本塁打を放った打線を解体してまで強化を図った投手陣は崩壊し、チーム防御率は4.54と当時のリーグワースト記録を打ち立てた。シーズン終了後に球団オーナーが中村長芳から重光武雄に交代し、重光と同じく在日韓国人の金田正一が監督への就任を売り込んだことや、役員の一部が中村が買収した福岡野球(太平洋)に移ったことも加わり、5年契約を破棄・解雇される。ロッテ退団後は、ラジオ関東で解説者を務めた後、1976年(昭和51年)、日本ハムファイターズ監督に就任。当時はマイナー扱いされていたパ・リーグの人気盛り上げに一役買い、工藤幹夫が20勝する活躍もあって2年連続後期優勝を達成。西武とのプレーオフ第1戦では、当時右手指の故障中であった工藤を強行登板させた。大沢は医者から「プレーオフには間に合う」と聞いて、密かに練習をさせ、周囲を欺いたと記している。一方で、これが工藤の選手生命を縮めたとも言われており、第1期監督時代初期のエースで同年途中に広島から西武へ移籍していた高橋直樹は「日本ハムでは木田や工藤が一年でダメになっているでしょう」と述べている。また、1982年(昭和57年)に広岡達朗が西武の監督に就任し、選手の食事療法まで踏み込む「超管理野球」を標榜すると「草ばっかり食ってヤギさんじゃあるめえし」と噛みつき、マスメディアの話題を呼んだ。1983年(昭和58年)、シーズン終了後、自らフロントに推薦した植村義信へ後を譲る形で監督を辞任。球団取締役に就任するが、植村は成績低迷により1984年(昭和59年)6月に辞任。植村を推薦した責任を取る形で復帰し、シーズン終了まで指揮をとった。1985年(昭和60年)から球団常務取締役としてフロント入りし、1986年(昭和61年)には二軍投手コーチに村上を招聘した。1993年(平成5年)、日本ハムの監督に3度目の就任。前任の土橋正幸が2年契約ながら1年で辞任し、大沢が推薦した上田利治は本人や大社義規オーナー(当時)も積極的だったが、フロントはオーナー以外が好意を示さず、次に要請した王貞治には、理事長を務めている世界少年野球推進財団の活動スケジュールの都合から固辞された。人気や知名度を優先するフロントに憤慨した大沢は、「人気だけだったら、宮沢りえにやらせろ」とまで言ったが、結局、時間切れで本人が引き受ける羽目になったと述べている。背番号は前回と同じ86に決まった。2期目の1年目は白井康勝を先発に、金石昭人をリリーフに転向。主に守備固めだった広瀬哲朗をレギュラーに定着させ、主将にも抜擢。田中幸雄・西崎幸広の復活やリック・シューの活躍もあり、西武と激しいデッドヒートを演じて2位に入る。大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって、「親分」の語句はこの年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている。しかし、1994年(平成6年)は最下位に終わり、最終戦終了後にはファンの前で土下座して謝った。5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。3連敗以上を14度も記録し、逆に3連勝以上は3度しかなかった。同年に監督を退任し、球団も退団した。1995年(平成7年)よりフリー評論家、日本プロ野球OBクラブ(全国野球振興会)理事長、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、「モルツ球団」監督・総監督、正力松太郎賞選考委員などとして活躍。また、1999年(平成11年)からTBS系『サンデーモーニング』内のコーナー「週刊御意見番」に張本勲と共にレギュラー出演。一週間のスポーツの中で起きた出来事を雑誌の中吊りをイメージした項目フリップに沿って関口が進行し、大沢と張本勲がプロ野球を中心に様々なスポーツの話題について、良い出来事やプレーについては「あっぱれ」、怠慢プレー等については「喝」を入れコメントをするスタイルは人気を呼んだ。2009年(平成21年)10月、胆嚢癌を発症。既に末期に近い状態であったため、手術をせずに抗がん剤などで治療を続けていた。番組などには病をおして出演していたが、2010年(平成22年)9月23日に体調を崩して入院。9月26日と10月3日の2回連続で『サンデーモーニング』に出演せず、9月26日にはその理由に触れなかったが、10月3日に本人からの手紙を関口宏が紹介。その中で「体調不良」を明らかにした。その後、容体が悪化し、10月7日午前7時25分、胆嚢癌のため東京都内の病院で死去。享年78。10月9日、パシフィック・リーグクライマックスシリーズファーストステージの埼玉西武ライオンズ 対 千葉ロッテマリーンズ第1回戦(西武ドーム)の試合開始前に、大沢の逝去を悼み、両軍選手並びにスタジアムの観衆による黙祷が行われた。


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「親分」の愛称で親しまれ、ユーモアあふれる言動でも人気を集めた大沢啓二。親分肌の性格とべらんめぇ口調による歯に衣着せぬ発言はお茶の間にも愛され、特に『サンデーモーニング』内のコーナー「週刊御意見番」で繰り出す「あっぱれ!」「喝!」の評価は、大沢の代名詞となった。一方、高校時代に納得のいかない判定を下した審判に蹴りを食らわし、プロの監督時代も通算退場回数7回を誇るなど、武勇伝にも事欠かなかった。大沢親分の墓は、神奈川県鎌倉市の薬王寺にある。墓には「大澤家之墓」とあり、右横に墓誌のレリーフがはめられている。戒名は「將導院球岳日昭大居士」。

by oku-taka | 2021-03-14 22:35 | スポーツ | Comments(0)