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川喜多かしこ(1908~1993)

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川喜多 かしこ(かわきた かしこ)

映画人・川喜多記念映画文化財団創設者
1908年(明治41年)〜1993年(平成5年)

1908年(明治41年)、大阪に生まれる。旧姓は、竹内。生後100日目に東京に転居し、その後、横浜・大連・秋田へと移り住んだ。1921年(大正10年)、横浜の祖父の家に戻り、フェリス和英女学校(現在のフェリス女学院)に入学。関東大震災で父を失い、神戸に移るもまもなく復学した。フェリス女学院を卒業後の1929年(昭和4年)1月、英語でタイプライターを打てる女性秘書として、東和商事合資会社(現在の東宝東和)に採用される。最初の仕事は、社長である川喜多長政が輸出を計画していた溝口健二監督『狂恋の女師匠』のシノプシスの英訳だった。同年秋、同社創立一周年記念日の秋に川喜多長政と結婚。しかし、長政が毎年ヨーロッパへ映画買い付けの旅に出掛けていたので、なかなか休暇が取れず、1932年(昭和7年)に仕事を兼ねた旅行へ同行するまで新婚旅行はお預けになっていた。その旅行中、かしこは『制服の処女』を観て気に入り、新婚旅行のプレゼントとして夫に買い付けを許可された。この作品は有名なスターの出演もなく、地味な作品だけにお客は入らないだろうとの予想であったが、予想を反して一世を風靡し、1933年(昭和8年)度キネマ旬報ベスト・テンの第1位に選ばれた。この出来事は、かしこの映画を見る目の確かさを証明し、翌年からほとんど毎年、夫婦でヨーロッパに出掛け、『自由を我らに』、『望郷』、『どん底』、『民族の祭典』などの名作を日本に輸入した。戦時中は、長政の仕事の関係で上海や北京に暮らした。終戦に際しては、娘の和子と二人で着の身着のままの引き揚げを体験した。1951年(昭和26年)、外国映画の輸入が許可されると、社名を「東和映画」に変更。副社長の座につき、夫を助けながら外国映画の輸入を再開した。同年、 黒澤明の『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞。これをきっかけに、それまで国際的には殆んど知られていなかった日本映画が世界で持て囃されるようになり、どこの映画祭も日本人を審査員に招くようになる。そこで、戦前から日本の映画業者としてヨーロッパでも作品選択の眼の高さを知られていた川喜多長政・かしこ夫妻に注目が集る。長政が商売に専念していたことから、かしこが選ばれることになり、ベルリン、 カンヌ、ヴェネチアをはじめ、国際映画祭の審査員を26回務めた。1953年(昭和28年)、15年ぶりにヨーロッパを訪れて『禁じられた遊び』を輸入。同作はこの年のキネマ旬報ベストテン第1位となった。1960年(昭和35年)、フランスの文化相であったアンドレ・マルローが来日。日仏の古典映画の回顧展を行ないたいとの正式な申し入れが行われ、かしこは「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織。当時、日本映画製作者連盟のトップだった大映の永田雅一を会長に据え、かしこは専務理事として、日本に国立のフィルム・アーカイブを設立させる運動の指揮をとった。映画業界全体の協力も得て、100本余の作品を集めることに成した。また、日仏交換映画祭に携わり、フランスの名作155作品の近代美術館での上映、フランスでの日本映画上映のために尽力した。1968年(昭和43年)、フランス芸術文化勲章を受章。1969年(昭和44年)、「東京国立近代美術館フィルムセンター」の創設に力を尽くし、6年前にパリのシネマテークで行った「日本映画大回顧展」で上映した映画のうち131本が東京国立近代美術館に寄贈され、日本で発足した最初のフィルム・アーカイブの所蔵作品となった。1970年(昭和45年)、東京国立近代美術館の映画部門がフィルムセンターとして充実したことにともない、「フィルムライブラリー助成協議会」は助成の文字を取り、日本映画を海外へ紹介するという新たな活動をスタート。日本映画の名作の収集・保存を積極的に始め、外国映画の輸入から日本映画の海外普及へと目が向けられていく。その主なるものとしては、ロンドンのナショナル・フィルム・シアターにおける「黒澤明全作品上映」、パリのシネマテークの「日本映画の75年」や「溝口・小津とその世代」の開催などが挙げられる。その後、国際交流基金などの協力も得て、テーマを決めた日本映画を20作品ほどパッケージにし、「現代日本映画20選」「映画でたどる日本の歴史」「映画でみる日本の家族」など、19集まで世界各地のシネマテークで巡回上映を行った。1974年(昭和49年)、紫綬褒章を受章。同年、岩波ホールの総支配人・高野悦子と共に、世界の埋もれた名画を世に紹介し、古今東西の名画の収集保存を行う活動「エキプ・ド・シネマ」を設立。1978年(昭和53年)、イタリア・ガバリエーレ勲章を受章。1980年(昭和55年)、勲三等瑞宝章を受章。1981年(昭和56年)、菊池寛賞を受賞。同年、夫の長政が死去。没後、フィルムライブラリーという任意の団体から、組織の充実を考え、長政の思いも活かすべく遺産の一部を基金として、財団法人「川喜多記念映画文化財団」として組織を発足。法人格を得ることによって、活動の普遍性と恒久性を目指した。1993年(平成5年)7月27日、死去。享年85。この51日前に娘の和子が、くも膜下出血による呼吸不全のため53歳で急逝。かしこは愛娘の死を病床で知り、後を追うようにこの世を去った。没後、正五位に叙せられた。


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「マダム・カワキタ」と呼ばれ、良質な映画を見極める優れた選択眼と、大らかな人柄で世界中の映画人から親しまれた川喜多かしこ。東宝東和の社長であった川喜多長政と結ばれ、戦前は海外の名画を日本に紹介。戦後は日本映画を海外に紹介する一方、映画フィルムの保存の重要性を説いてアーカイブの構築と実現の中心的役割を担った。国際映画祭の審査員も務めること26回、まさに映画にその生涯を捧げた川喜多かしこの墓は、神奈川県鎌倉市の英勝寺にある。彼女の墓は、寺の裏手にある階段をひたすら上り、傾斜の急な墓地の一番頂上に建立されている。3基ならぶ一族の墓域の中で、真ん中に建つ墓に「川喜多家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「喜多院蘭室映華道順大姉」。

by oku-taka | 2021-03-06 23:42 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)