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川喜多長政(1903~1981)

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川喜多 長政(かわきた ながまさ)

映画人
1903年(明治36年)〜1981年(昭和56年)

1903年(明治36年)、陸軍大尉・川喜多大治郎の次男として東京で生まれる。名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。1922年(大正11年)、都内屈指の進学校である東京府立四中(現在の東京都立戸山高等学校)を卒業後、中国に渡って北京大学に学ぶ。さらにドイツへ留学し、ヨーロッパの文化に接して国際交流の重要性を実感した。帰国後、ウーファ (映画会社)の代理人を経て、1928年(昭和3年)に東洋と西洋の和合を願って「東和商事」(現在の東宝東和)を設立。ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。1929年(昭和4年)、同社に入社したタイピストの竹内かしこ(川喜多かしこ)と結婚。夫婦で世界中を買い付けに回り、『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『女だけの都』『望郷』『民族の祭典』など、数々の名作を輸入・配給。若き長政は日本最大の映画輸入業者として知られるようになった。映画の輸入ばかりでなく、1937年(昭和12年)には、ドイツとの初めての合作映画『新しき土』を制作した。 1939年(昭和14年)3月、陸軍から日本軍支配地域の映画配給会社の日本側代表を依頼される。日独合作、日中合作映画を製作して配給した実績があり、中国語に堪能で、各方面に人脈があったことから選ばれたとされる。長政が大陸に渡る決心をしたのは幾つかの説があり、彼自身は中国との友好の掛け橋となりたいと説明している。また、日独満の協定によりドイツ映画の配給について満州国が独占権を握ったため、これに対抗しようとしたとする説もある。ただ、彼の信条である「中国と日本の映画による友好」の立場で上海にいる以上は軍の圧力は避けられず、また中国人からも敵視されるのは覚悟の上での大陸入りといえる。1939年(昭和14年)6月27日、中華電影股份有限公司(中華電影)が日中合弁で設立されると、その最高責任者に就任。専務董事として本社を共同租界に置き、映画製作については日本人は入れないとして中国人のプロデューサー張善琨をトップに据える。浙江省に生まれ、上海の大学に学んだ後はやくざ社会を経て上海映画界の大立者となったとされる張善琨をプロデューサーとしての手腕を見込んだ長政は彼を信頼し、張は上海の主要な映画人を集めて長政に協力するよう要請。同時に、国民党(重慶)と連絡を取り、上海映画人たちの中国国内での立場を確保している。これは、日本人に協力した場合は漢奸とされ、テロの標的とされても仕方のないために講じた措置である。このため、日本と中国の板ばさみで中華電影の作品は「比喩的に日本を非難するか」「全くの娯楽作」というものが多いが、娯楽作は庶民を喜ばせた。長政は上海の中国人の苦渋と屈辱を考え、最後まで保護をした。1941年(昭和16年)、南京の総司令部より中央の国策に沿う映画を撮るように圧力をかけられるも何とかやり過ごし、中国側スタッフに自由な映画制作をさせて軍部からの圧力に抵抗した。 12月8日、上海の租界全域を日本軍が占領したことでより事態は厳しくなるが、中国人スタッフの多くは長政を信頼し上海映画界に残る。この後、上海映画界の統合団体の役員に名を連ねるが、1944年(昭和19年)に張が憲兵に拘束される。何とか釈放させるが、翌年には張は上海を脱出し重慶へ逃げる。軍の上層部では重慶とのパイプとして張の存在を認めていたが、憲兵にはグレーゾーンとして見られていたため脱出したとされる。1945年(昭和20年)の敗戦後は、家族を先に日本へと帰らせ、上海での残務整理をしていたが、山口淑子が漢奸とされ処刑されると聞くと、この救出に尽力。1946年(昭和21年)、大陸を離れて山口と共に日本へ戻った。1947年(昭和22年)、総司令部より公職追放とされるが、世界中から彼に助けられたユダヤ人や中国人の弁護の声明が出された。1950年(昭和25年)には公職へ復帰。1951年(昭和26年)、社名を「東和映画」と変更し、外国映画の輸入を再開。『天井桟敷の人々』『第三の男』『落ちた偶像』『禁じられた遊び』『居酒屋』『肉体の悪魔』『チャップリンの独裁者』などを日本に紹介した。また、黒澤明監督の『羅生門』をヴェネチア映画祭に出品することに協力。結果、『羅生門』はグランプリを獲得し、日本映画を世界に知らしめることに成功した。これ以降、経営者として辣腕を振るいながら、妻のかしこの世界的な文化事業をバックアップしていく。1964年(昭和39年)、藍綬褒章を受章。1973年(昭和48年)、勲二等瑞宝章を受章。また、フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジォン・ドヌール勲章、イタリアからコメンダトーレ勲章を授かる。1975年(昭和50年)、社名を「東宝東和株式会社」と改称。翌年には社長の座を白洲春正氏に譲り、会長となった。1981年(昭和56年)5月24日、肝硬変のため死去。享年78。没後、正四位に叙せられ、銀杯一組が賜与された。


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戦前よりヨーロッパ映画を日本に紹介し、映画を通じて国際交流に貢献した川喜多長政。戦時中は中国大陸に渡り、軍の命令に反抗して現地人に自由な映画制作をさせた気骨な人でもあった。国際的映画人として、アジアでは絶大な信用を有した川喜多長政の墓は、神奈川県鎌倉市の英勝寺にある。彼の墓は、寺の裏手にある階段をひたすら上り、傾斜の急な墓地の一番頂上に建立されている。3基ならぶ一族の墓域の中で、真ん中に建つ墓に「川喜多家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「霞公院東和映華一夢居士」。

by oku-taka | 2021-03-06 23:36 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)