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横山泰三(1917~2007)

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横山 泰三(よこやま たいぞう)

漫画家
1917年(大正6年)〜2007年(平成19年)

1917年(大正6年)、高知県高知市に生まれる。6歳の時に父が倒れ、一家は離散。6人兄弟の次男坊だった泰三は叔父叔母の家をたらい回しされ、使用人同様の扱いをされた。この時の体験から、簡単には人や物事を信じない性格が培われた。旧制高知商業学校在学中の1931年(昭和6年)、既にプロ漫画家として活動していた兄の隆一を頼って上京。その後、油彩画家を目指し、川端画学校で3年間洋画を学ぶ。しかし、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)にかけて中国へ出征。陸軍輜重兵として漢口攻略戦に参戦した。除隊後、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学し、1944年(昭和19年)まで通うも、軍事教練ばかりで学校が嫌になって中退。白木屋宣伝部に勤務し、ポスターの製作に従事した。この間、雑誌『大阪パック』に投稿した漫画作品が一等に入選。しかし、兄の隆一が「画家志望なら漫画などを描くな」と怒り、それ以降は投稿をやめた。その後、再度応召され、高知県の海岸警備をつとめていたところで終戦を迎える。戦後、腎臓病を患っていた兄を手伝ううちに、自分もふたたび漫画を描くようになる。『新夕刊』の専属として連載小説の挿絵を手掛けるかたわら、『VAN』『ホープ』などで執筆。活動当初はロートレックのような流麗な線を用いたタッチで、戦後の開放的な風俗をテーマにしたエロティックな風俗漫画を描いていたが、やがてスタインバーグの影響を受けた「点と線とでもいうべきタッチ」「着想の奇抜さとギリギリまで省略したシンプルな線描」へと画風が変化した。1950年(昭和25年)、『ホープ』8月号に寄稿した、皇居前広場で逢引きに興じる多数の男女を風刺した「噂の皇居前広場」と題した1コマ漫画が警視庁保安課により「わいせつ画」として摘発され、横山および出版元の責任者が出頭を命じられた。漫画がわいせつ画として摘発されたのは戦後初のことであったという。作家の獅子文六は『朝日新聞』に「あゝいう表現からは、たとえ生殖器を描いても、ワイセツ感は乏しいだろう」「ちょう発的なエロさし絵やエロ表紙の意図と、同一視してはならぬ」と書き、評論家の大宅壮一は『毎日新聞』に「現場はそのままにしておいて、それを描いた作品だけを取締まるのはどうか」と書いて警視庁を批判し、横山を擁護した。この一件によって横山は「文句があるなら言ってこい、いつでも受けて立ってやる」という反骨精神を得た。1954年(昭和29年)、『毎日新聞』で「プーサン」を連載。横山が「プーサン」の名に込めた意味は特になく、「パピプペポがおもしろい」と思い付き、「パーサン」「ピーサン」「プーサン」「ペーサン」「ポーサン」と順に口に出し、語呂の面白いものに決めただけだという。ふきだしはセリフを示す用途としては使われず、セリフは登場人物の横にそのまま添えられた。また、連載初期にはカタカナとごく少量の漢字のみが使われた。当初は「プーサン」という主人公が、様々な役柄に扮し、ニュースに基づいた様々な出来事に巻き込まれる内容であった。プーサンは長い鼻と大きな丸い目を持つものの、禿頭の無個性な造形であり、幾何学的な描線と社会風刺とともに注目され、映画化されるほどの人気を博す。しかし、「ある幹部が事あるごとに描き直しを命じてくる」ことに嫌気が差し、出張先の電話口で「やめます」と口走ったことから連載が短期間で終了。この電話の際、横山のそばにはたまたま朝日新聞社の扇谷正造がおり、その縁で1954年(昭和29年)から朝日新聞『社会戯評』に移る。単純化した直線的な構成による画風で風俗・風刺漫画を描き、高い評価を得る。同年、これまでの漫画にはない単純な線だけで表現された描写方法の斬新さが評価を受け、第2回菊池寛賞を受賞した。1965年(昭和40年)9月、『プーサン』が週刊新潮に移って再開。体裁が6コマに変わり、1989年(平成元年)7月まで長期にわたって連載された。1981年(昭和56年)、紫綬褒章を受章。1988年(昭和63年)、勲四等旭日小綬章を受章。1992年(平成4年)、『社会戯評」の連載を勇退。以後も朝日新聞に度々寄稿するなど、晩年まで精力的に活動を行った。2007年6月10日午前11時55分、肺炎のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年90。


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強烈な社会風刺を独特な線とユーモラスで表現した横山泰三。兄の横山隆一がほのぼのとした漫画『フクちゃん』を描いたのとは対照的に、弟の泰三は政治や社会を辛辣に批評する大人の漫画に特化して描い続けた。特に朝日新聞で連載された『社会戯評』は39年間にわたって描き続け、実に13561回を誇る長寿漫画となった。その一方で、漫画のキャラの首に名札をぶら下げる手法などを使っていたせいで「政治家の似顔絵が描けない風刺漫画家」と言われたり、竹熊健太郎・相原コージの『サルでも描けるまんが教室』でギャグのネタにされるなど、風刺漫画家の宿命ともいうべき批判も多くあった。風刺漫画の基礎を確立した横山泰三の墓は、神奈川県鎌倉市の覚園寺にある。洋形の墓には「横山家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「達心院普現泰三居士」。

by oku-taka | 2021-02-06 13:00 | 漫画家 | Comments(0)