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三代目・三遊亭圓歌(1932~2017)

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三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか)

落語家
1932年(昭和7年)~2017年(平成29年)

1932年(昭和7年)、東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)に生まれる。本名は、中澤 信夫(なかざわ のぶお)であるが、出家後の資料では中澤 圓法(なかざわ えんぽう)としている。出生名は、小林 信夫(こばやし のぶお)。生年については、1932年説と1929年(昭和4年)説があり、後者は「空襲で役所が焼け、戸籍を再度届け出た際に家族が間違え、戸籍上3歳若くなったためである」としている。四代目圓歌によれば、三代目の通夜が終わった後、飲み屋で会った岩倉鉄道学校の卒業生が1931年生まれで圓歌のことを「1年後輩」と言ったこと、かつて手伝いに来ていた圓歌の母に聞いたところ「そんなに早く産んだ覚えはない」と言われたことに加え、1929年説は五代目春風亭柳朝との確執の末に出てきたものだという。圓歌は日ごろから柳朝とはそりが合わず何かにつけて意地の張り合いをしていたが、ある時柳朝に「俺は昭和4年生まれだ。そっちは?」と聞かれ、負けず嫌いがゆえに1932年生まれの年下であることが言えず「俺も4年だ」と言い返し、これが定着したものだとしている。幼少期より、駄菓子屋を経営する祖母・中澤タダと二人暮らしであった。その後、東京市第二寺島尋常小学校(現在の墨田区立第二寺島小学校)に入学。先輩には後にアナウンサーとなる小川宏がおり、吃音者だった小川宏の真似をしていたら自分も吃音症を患うようになる。卒業後は鉄道員を志望し、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)に進学。卒業後は、運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線の新大久保駅で駅員を務めていた。戦後間もない頃、実家を間借りていた四代目三遊亭圓楽(後の三代目柳亭市馬)に吃音症の克服を相談したところ「落語家になればいい」とアドバイスを受け、寄席見物に行く。ここで二代目三遊亭圓歌と出会い、1945年(昭和20年)8月に東京鉄道局を退職して圓歌に入門した。前座名は、三遊亭 歌治。1949年(昭和24年)、二つ目に昇進し、二代目三遊亭歌奴に改名。この頃スランプに陥り、一時期大阪へ失踪。周囲に諭されて東京に戻るが、帰路の都電で円歌と遭遇。「明日の朝、おいで」と言われ、翌朝おそるおそる謝罪しに行くと、「いままでの芸じゃ駄目だ。何か、新しいものを見つけてこい」と1ヶ月ほど暇を出される。そこで、祖母の疎開先であった秋田県湯ノ岱温泉へ向かい、ここで現地の人と東京の観光客で方言の違いで両者の会話に齟齬が出ていたことが面白く、これを落語に取り入れることができないかと思案。そこへ、たまたま持っていた上田敏の訳詩集「海潮音」に収録されていたカール・ブッセの詩「山のあなた」を加えてできた噺が、歌奴の代名詞とも言える創作落語『授業中(山のあなた)』である。この『授業中』を早稲田の寄席「ゆたか」でやったところ大いに受け、気をよくした歌奴はNHKラジオにかけるとこれまた大好評。こうして、歌奴の名前は全国区になっていき、1957年(昭和32年)には二つ目のまま初代林家三平と鈴本演芸場でトリを務めるまでになった。その後も、『月給日』『浪曲社長』などの噺を作り続けた一方、『西行』『品川心中』など古典にも取り組んだ。1958年(昭和33年)9月、真打ちに昇進。戦後入門した落語家としての真打ち第1号となった。黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。1970年(昭和45年)9月、三代目三遊亭圓歌を襲名。以後はテレビ出演を控え、高座に専念した。また、『授業中』を超える演目を作るため、自身の両親、妻の両親、さらに亡くなった先妻の両親の計6人のお年寄りが同居する中沢家の騒動を、虚実交えながら笑いに変えて語る『中沢家の人々』を発表。以来『中沢家の人々』は人々に親しまれる人気演目となり、圓歌の代表作となった。1971年(昭和46年)、『三味線栗毛』で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。1985年(昭和60年)、「誰かが上にいないと人間はどんどん高慢になる」との理由から出家。日蓮宗久遠寺で修行し、法号「本遊院圓法日信」を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。1987年(昭和62年)、当時の落語協会副会長だった六代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。1992年(平成4年)、浅草芸能大賞大賞を受賞。1996年(平成8年)8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目落語協会会長に就任。2002年(平成14年)、勲四等旭日小綬章を受章。2006年(平成18年)6月、落語協会の会長を退任し、最高顧問に就任した。80歳を過ぎても精力的に高座に上がったが、体調面では大腸がんの手術を受け、心臓にも病気を抱えた。晩年は結腸癌を患い、足腰も衰えたが、弟子たちに支えられて高座につくなど現役を貫いた。2017年(平成29年)1月4日には鈴本演芸場で弟子とともに座談会を開いたが、結果的にこれが最後の高座となった。3月に一時入院。退院後は自宅療養していたが、4月23日午前11時頃、東京都内の自宅で倒れ救急搬送。午後1時25分に結腸癌による腸閉塞のため東京都内の病院で死去。享年86。


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『授業中』や『中沢家の人々』といった新作落語で一世を風靡した三代目三遊亭圓歌。自らの吃音体験を落語として活かし、「山のあなたの空遠く」で始まるドイツの詩人カール・ブッセの詩を朗読する場面で「山のアナ、アナ、アナ……」と織り込む『授業中』で爆発的な人気となり、テレビ時代も相まって初代林家三平とともに演芸ブームを築いた。晩年は高齢化社会を風刺した『中沢家の人々』一本で高座に上がり、「自慢じゃねえがうちには年寄りが佃煮にするほどいる」等の定番ネタでをバンバンお客を笑わしていた。「落語界の異端児」を自称し、嘘と真実を織り交ぜた落語で貪欲に笑いを取りに行った三遊亭圓歌の墓は、1985年に得度した東京都墨田区の本法寺にある。墓には「南無妙法蓮華経」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「本遊院圓法日信法師」。

by oku-taka | 2020-12-30 18:03 | 演芸人 | Comments(0)