1927年(昭和2年)、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。曽祖父は五・一五事件で首相在職中に暗殺された犬養毅であり、貞子の命名は犬養毅による。外交官で元フィンランド特命全権公使だった父の転勤で、幼少期をアメリカ・サンフランシスコ(バークレー)、中国・広東省、香港などで過ごす。小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入。在学中、学長であったマザー・ブリットの影響を強く受け、カトリック信者となった。1951年(昭和26年)、聖心女子大学文学部英文科(現在の英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。その後、父や聖心女子大学学長のブリットの勧めで、アメリカ合衆国のジョージタウン大学で国際関係論の修士号を取得。1953年(昭和28年)に帰国し、東京大学法学部の岡義武ゼミの研究生として政治史などを学ぶ。その後、カリフォルニア大学バークレー校に留学し、勃興期の国際政治理論を学ぶ。R・スナイダーらの政策決定過程論などに強い刺激を受けた。その後、片倉衷元関東軍参謀の日誌、外務省の日中戦争関連電信記録などを読み込み、1962年(昭和37年)に博士論文「Defiance in Manchuria: The Making of Japanese Foreign Policy,1931-1932」(『満州事変と政策の形成過程』)を提出。「なぜ日本はあの無謀な戦争に踏み込んだか」という問題意識にたち、日本政府と軍部の「無責任の体制」を明らかにした。同論文は米国内で高い評価を受け、政治学博士号を取得した。1965年(昭和40年)、国際基督教大学の非常勤講師となる。1968年(昭和43年)、参議院議員を務めていた市川房枝から「今年の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請され、国連総会の日本政府代表顧問に就任。これが契機となって国際連合の仕事に関わるようになる。1974年(昭和49年)、国際基督教大学の準教授となる。1975年(昭和50年)、国連はこの年を国際婦人年にすることを宣言。日本社会党の田中寿美子が参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」と提言すると、宮澤喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答。曾野綾子や中根千枝など10人近くの候補が挙がるが、いずれも断られ、緒方が口説き落とされた。これにより緒方は、翌年に国連日本政府代表部公使となり、女性国連公使第1号となった。1978年(昭和53年)からは国連日本政府代表部特命全権公使となり、併せてユニセフ執行理事会議長も務めた。1979年(昭和54年)、外務省の参与となる。同年、日本政府カンボジア難民救済実情視察団の団長に就任。1980年(昭和55年)、上智大学の教授に就任。在籍中は上智大学国際関係研究所長や外国語学部長などを務め、また模擬国連団体として初めて組織化された「模擬国連実行委員会」の顧問として発足に携わった。1982年(昭和57年)、国連人権委員会日本政府代表に就任。1983年(昭和58年)、国際人道問題独立委員会の委員となる。1990年(平成2年)、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官に就任し、ミャンマーの人権抑圧を調査する。在任中、天性ともいえる率直・簡潔な物言い、説得力、機敏な議論集約力、揺らぐことのない道義的な考え方が注目され、国連総会で国連難民高等弁務官に選出される。1991年(平成3年)、正式に第8代国連難民高等弁務官へ就任した。この頃、イラク戦争で発生したクルド難民から、バルカン紛争、ルワンダ・ザイール危機、アフガン紛争などによって発生した数百万人規模の難民が発生。国際社会は関与を忌避し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に出動を要請した。緒方は、イラクのクルド人、旧ユーゴスラビア、特にボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒、ルワンダのフツ族など内戦が生み出す難民の保護に現場主義を掲げて傑出したリーダーシップを発揮。人間中心主義・現場主義を理念に、防弾チョッキで紛争の最前線に駆けつけ、難民の声に耳を傾ける姿は世界のメディアの注目を集めた。また、UNHCRの保護対象は国外に逃れた難民に限られていたが、紛争地内の避難民(国内避難民)にも目を向け、その保護・救済活動にも着手。難民条約の定義を満たさない国内避難民への保護・支援の拡大や、支援物資輸送における北大西洋条約機構(NATO)軍との協力など、粘り強い交渉で紛争解決の道筋と難民の保護・支援体制を構築した。内戦や紛争だけでなく、恐怖と欠乏をもたらすあらゆる脅威から人々を守る「人間の安全保障」の理念を訴え、国連の難民支援体制を変革した。こうした「人間の命を最優先する」という緒方の決断は、その後のUNHCRの新しい行動指針となり、苦境にある人々の自立を継ぎ目なく支援する「人間の安全保障」概念は、国連の新しい理念として広まった。こうした功績が認められ、国連難民高等弁務官には2度再任。この間、イタリア金の鳩平和賞、フィラデルフィア自由賞、マグサイサイ賞平和国際理解部門など、各国や国際機関から25以上の賞と勲章を授与され、1996年(平成8年)には日本人として初めてユネスコのウフエボワニ平和賞を受賞した。2000年(平成12年)、難民教育基金を設立。紛争終結後の復興支援や難民の教育・職業訓練支援、開発との連携などの活動を進め、世界に向けて「難民に対する尊厳」の大切さをアピールした。12月31日、国連難民高等弁務官を退任。2001年(平成13年)、人間の安全保障委員会共同議長に就任。同年、文化功労者に選出。11月にはアフガニスタン支援政府特別代表となり、2002年(平成14年)1月21-22日のアフガニスタン復興支援国際会議では共同議長として復興プログラムをとりまとめ、45億ドルもの基金集めに力を発揮した。同年、外務大臣だった田中真紀子の更迭時にはその後任に推す声もあったが、辞退した。本人は外相就任について後に、「かなり迷った」と述懐しており、就任に前向きだった時期もあったとされる。しかし、同時期に夫・四十郎の健康が悪化したことが最終的な辞退に繋がった。2003年(平成15年)、国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会議長に就任。同年、文化勲章を受章。10月1日には国際協力機構 (JICA) の理事長に就任。海外事務所を増やしたり、アフリカ諸国への援助を増加したりするなどの改革を押し進めた。一方、2004年(平成16年)12月27日に設置された「皇室典範に関する有識者会議」にメンバーの一人として参加。日本の皇位継承問題やそれに関連する制度(皇室典範)について、2005年(平成17年)1月より17回の会合を開き、同年11月24日には皇位継承について女性天皇・女系天皇の容認、長子優先を柱とした報告書を提出した。2011年(平成23年)、人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任。2012年(平成24年)、国際協力機構 (JICA)の理事長を退任し、特別顧問に就任。特別顧問となってからも、シリアの難民問題などについて活発に発言し続けた。4月17日、東京都内の外務省飯倉会館にて、当時の玄葉光一郎外務大臣(野田第1次改造内閣)主催で「緒方貞子氏の我が国及び国際社会への貢献に敬意を表すレセプション」が開催。当時の野田佳彦首相も参加し。挨拶の中で「昨年3月に私どもは東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を経験しましたが、160を越える国から、40を越える国際機関から、温かい支援の申し出をいただきました。(中略)世界のために最前線に立って汗を流した日本人(=緒方貞子)がいたからこそ、このような世界から温かいご支援をいただいたものと思います。」と述べた。2019年(令和元年)10月22日午前2時18分、東京都内の病院で死去。享年92。没後、従三位に叙された。