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渡哲也(1941~2020)

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渡 哲也(わたり てつや)

俳優
1941年(昭和16年)~2020年(令和2年)

1941年(昭和16年)、島根県能義郡安来町(現在の安来市)に生まれる。本名は、渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)。父親が日立に勤務していたが、1943年(昭和18年)に退職し、実家がある兵庫県津名郡淡路町(現在の淡路市)に戻り洋品店を開業。そのため、小学校一年生の途中から淡路島で育った。淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校と進学し、青山学院大学経済学部に進学。大学へ通うため上京し、弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現在の北新宿)で下宿していた。大学在学中は空手道部(流派は日本空手協会・松濤館流)に在籍していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験 (国語・数学・物理・化学) が全科目英語で不合格となり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受け、1964年(昭和39年)に日活へ入社した。既に斜陽期に差し掛かってた日活では、高橋英樹に続くスター候補として、デビュー前の記者会見では破格の扱いを受け “映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” の横断幕で大々的に売り出した。記者会見の場では瓦割りを披露し、翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられた。1965年(昭和40年)3月、『あばれ騎士道』で宍戸錠とのW主演でデビュー。この作品で、エランドール賞新人賞を受賞した。2作目の『青春の裁き』では単独主演し、オープニングクレジット映像では空手の型・約束組手を披露。本編での複数相手の乱闘シーンでは飛び蹴りや二段蹴りを連発し正拳突きで止めを刺すなど空手部キャプテンの実績を生かした作品になっている。12月、『赤い谷間の決斗』で石原裕次郎と初共演を果たす。デビュー当時、食堂で食事をしていた石原裕次郎に挨拶に行った際、本来なら食事中に挨拶をするのは失礼なことであるにもかかわらず、石原は他の俳優達とは違い怒りもせず、立ち上がって自ら進んで握手し、「石原裕次郎です。君が新人の渡君ですか、頑張って下さいね」と声を掛けてくれたため、渡はとても感激した。渡もそれに習い、ベテランとして若手から挨拶を受ける立場になっても、石原と同じように立ち上がって握手しながら声を掛けている。1966年(昭和41年)、鈴木清順監督、 川内康範による脚本の映画『東京流れ者』に主演。主題歌『東京流れ者』も歌った。同年、吉永小百合との初共演映画『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を受賞。また、「裕次郎2世」と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演した。1968年(昭和43年)、舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』に主演。『無頼』シリーズは6作品にわたって製作され、渡の日活時代の代表作となった。これらのヒットで一躍日活ニューアクション時代のスターとなったが、1971年(昭和46年)に日活はロマンポルノ路線へ転換。これにともない、7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した。東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社。9月封切の『さらば掟』を手始めに、『ゴキブリ刑事』、『野良犬』など松竹や東宝の作品に主演・準主演した。また、連続テレビドラマにも出演したが、1972年(昭和47年)のテレビ時代劇『忍法かけろう斬り』収録中に肋膜炎を発症し入院。第20話で降板となり、第21話から最終話(第26話)まで渡瀬恒彦が代役を務めた。その後、1974年(昭和49年)大河ドラマ『勝海舟』の主演に抜擢されるも、収録中に高熱が続き入院。第9話で途中降板となる。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発し、入院は9か月に及んだ(その後、膠原病であったことが判明)。一方、前年8月にリリースした『くちなしの花』が年明けからヒットチャートを上昇し、年間シングルチャートで7位を記録。オリコンセールス77.4万枚、累計150万枚を売り上げ、全日本有線放送大賞の金賞を受賞。渡の代表曲となった。体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場。テレビで初めて生歌唱した。一方、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり、特に弟・恒彦をスカウトした岡田茂東映社長が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したとされたため、1975年(昭和50年)に渡は東映入りと報道もされた。当時の東映は俊藤浩滋が高倉らを伴い独立しようとしたお家騒動があり、岡田は渡を高倉の後釜に据えようと画策していた。もともと『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡であったが、この時期の渡は体調が優れず実現に至らなかった。その後『脱獄広島殺人囚』「新仁義なき戦いシリーズ」とも出演要請を受けたが、体調がまだ万全ではなく断っていた。岡田からの東映移籍の誘いは「私は石原裕次郎に恩義があります。石原裕次郎を裏切ることはできません」とキッパリ断った。ただし、東映の映画出演については了承したため、2月に東映実録ヤクザ路線の極北といわれる『仁義の墓場』でようやく東映初出演(主演)となった。同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ、この年4月の『大脱獄』で高倉健と、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太と競演させ、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、"東映スター渡"をイメージ付けようとした。しかし、『仁義の墓場』撮影後に再び病に倒れた。先の『大脱獄』は、最初は高倉健・渡哲也・五木ひろしの三大共演を予定していたが、五木がギャラ問題で辞退。代わりに抜擢されたのが菅原文太で、高倉・渡・菅原という三大共演の可能性もあり、実際に3人の名前の書かれたポスターも製作された。しかし、渡が前年に続き長期入院したため三大共演は実現することはなかった。また、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたが、これも流れた。入院は延べ2年半に及んだ。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。この後、石原プロのテレビドラマに専念するため映画出演は一時的に撤退した。石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出。渡にとって復帰第1作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化された。続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映されるほどの人気作となった。これら刑事ドラマでの「角刈りにサングラス」というスタイルは渡のトレードマークとなり、同時期に放送されていたTBS『クイズ100人に聞きました』で「サングラスと言えば誰?」の問題で渡哲也が圧倒的人数で第1位となった。渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していたが、1987年(昭和62年)7月17日に石原裕次郎が肝細胞癌のため52歳で死去すると、10月に渡が石原プロの二代目社長に就任した。1989年(平成元年)3月、渡が社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の第5話を撮影中、渡扮する倉本班長がヘリから降りて全力疾走するシーンでヘリから着地した際、左足に激痛が走った。「ただの捻挫だろう」と痛みを感じつつも撮影を続行したが、痛みは増すばかりで、翌日に病院で診察を受けたところ、全治1か月半の「腓腹筋断裂」と診断された。これは、ヘリから着地した際の腓腹筋の捻挫が、その後の撮影続行で更にひどくなり、遂に断裂したのが原因だった。しかし、「撮影に穴を開けるわけにはいかない」と撮影続行を宣言。報道陣の前で「アクションと怪我は紙一重、やるっきゃありません」と、石原プロ社長としての責任感の強さをのぞかせた。その後、このケガが原因で、足をひきずって歩く後遺症が残った。1991年(平成3年)、直腸癌を公表。これにより、オストメイト(人工肛門使用者)であることを明らかにした。1996年(平成8年)、岡田茂から「もう映画を演ってもいいんじゃないか」と促され、『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰。本作でキネマ旬報助演男優賞、日刊スポーツ映画大賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞、ブルーリボン賞助演男優賞、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞し、この年の各映画賞助演男優賞を独占した。同年、大河ドラマ『秀吉』に出演。劇中では、主人公の秀吉(演・竹中直人)の主君である織田信長を演じ、退場回に放送された本能寺の変でのシーンは大きな反響を呼んだ。1997年(平成9年)、映画『誘拐』で日刊スポーツ映画大賞主演男優賞、日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。2005年(平成17年)、紫綬褒章を受章。2011年(平成23年)5月11日、石原裕次郎23回忌を終えたことの区切りや、自らの健康上のこと、社長在籍期間が裕次郎の社長在籍期間と同じ24年目を迎え「それを越えるわけにはいかない」などの理由から、3月28日付をもって石原プロモーション社長を退任したことを発表した。2013年(平成25年)、旭日小綬章を受章。2015年(平成27年)、6月10日に急性心筋梗塞で緊急入院し、手術を受けていたことが明らかになる。このときは約1か月で退院し、11月10日の宝酒造「松竹梅」CM撮影で仕事復帰した。これ以降、CM撮影や石原裕次郎の特別番組の収録などを行ったが、映画やドラマの現場に出ることはなかった。2017年(平成29年)3月14日、弟・恒彦が胆嚢癌による多臓器不全のため72歳で死去。「この喪失感は何とも言葉になりません。つらさが募るばかりです」とのコメントを発表した。4月1日、石原プロモーションの経営陣に復帰し、「相談取締役」の肩書きで相談役と取締役を兼任する。しかし、8月に行われた北海道の石原裕次郎記念館の閉館セレモニーには出席しなかった。晩年は肺気腫を発症し、外出時も酸素吸入器を外せない状態だったことから自宅療養が続いていた。2020年(令和2年)8月9日、自宅から都内病院に救急搬送され緊急入院。医師には長くても2週間と告げられたが、翌10日午後6時30分、肺炎のため死去。享年78。渡の遺志により直後の発表はされず、石原プロ関係者には8月12日に死去が知らされ、一般への公表は家族葬が終了した8月14日に行われた。


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ダンディーさと寡黙な雰囲気が魅力的であった昭和のスター俳優・渡哲也。男気にあふれ、誰に対しても分け隔てなく接する実直な性格は、お茶の間のみならず芸能界においても多くの人に慕われた。そうした渡の性格は、役者として憧れ続け、周囲への細かい気遣いにあふれた石原裕次郎に影響されたものだった。以降、役者として歌手として石原プロを支え続け、日本のエンターティメントを石原裕次郎・渡哲也のコンビで盛り上げていった。渡自身も幾多の大病を乗り越え、役者としてのすごみを増していった。特に『西部警察』での角刈りにサングラスでヘリコプターから銃をぶっ放すスタイルはトレードマークとなり、刑事ドラマにおいて唯一無二の存在を確立した。石原プロの業務終了発表を見届けるかのように、敬愛する石原裕次郎のもとへと旅立った渡哲也の墓は、東京都目黒区の円融寺にある。墓には「渡瀬家」とあり、左側に妻の代々の墓、右側に墓誌が建つ。戒名は「萬修院泰然自道居士」。

by oku-taka | 2020-12-29 00:21 | 俳優・女優 | Comments(0)