人気ブログランキング | 話題のタグを見る

奥村土牛(1889~1990)

奥村土牛(1889~1990)_f0368298_17595932.jpg

奥村 土牛(おくむら とぎゅう)

日本画家
1889年(明治22年)~1990年(平成2年)

1889年(明治22年)、 東京府東京市京橋区南鞘町(現在の東京都中央区京橋一丁目)に生まれる。本名は、奥村 義三(おくむら よしぞう)。画家志望であった父親のもとで10代から絵画に親しんだ。1900年(明治33年)、城東尋常小学校を卒業。高等科に進むが、病弱のため1年で中退した。1905年(明治38年)、梶田半古の門を叩き、当時塾頭であった小林古径に日本画を師事。古径の新古典主義に見られる厳しい気品を受け継ぎながら、豊かな現実感に満ちた画面を構成した。当時は歴史画が主流であり、弟子は歴史画の模写から修業を始めるのだが、土牛は模写よりも写生を重視した。1906年(明治39年)、日本美術院の名で開催された日本絵画展覧会に『菅公の幼時』が入選。1907年(明治40年)には東京勧業博覧会に『敦盛』が入選した。また、1908年(明治41年)の巽画会展で『ゆく春』、1909年(明治42年)の巽画会展で『とりこ』を出品し、褒状を受賞した。1913年(明治45年)、生活費を稼ぐため逓信省の為替貯金局統計課に勤務。ポスターや統計図、絵葉書などを描き、5年のあいだ勤務した。この間、文芸雑誌『白樺』が創刊されてから毎号愛読し、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンら後期印象派に大きな影響を受けた。一方、22才頃から再び健康状態がすぐれなくなり、以後約10年間にわたって写生に励む。その成果として、1917年(大正6年)に父の経営する書店から『スケッチそのをりをり』として出版。このとき、生年の干支「己丑」と『寒山詩』の「土牛、石田を耕す」にちなんで、父から「土牛」の号を与えられる。1920年(大正9年)、東京府荏原郡馬込村に新築の小林古径の画室に留守番役を兼ねて住込み、約2年間指導を受ける。1921年(大正10年)5月、中央美術社第2回展に『乙女椿』が入選。1922年(大正11年)3月には日本美術院第8回試作展に『トマト畑』が、6月には中央美術社第3回展に『白牡丹』『慈姑』が連続して入選する。1923年(大正12年)、中央美術社第5回展『家』にて中央美術賞を受賞。1924年(大正13年)から院展に出品するも落選が続き、しばらく制作上の迷いが続いた。1926年(大正15年)春頃から速水御舟の研究会に出席し、刺激を受けた。1927年(昭和2年)、第14回院展で「胡瓜畑」が初入選を果たす。昭和に入り、古径の画風を思わせる大正期の線的要素の強い画風から豊かな色彩の表現へと移行。1929年(昭和4年)には第16回院展に出品した『蓮池』で日本美術院院友に推挙され、1932年(昭和7年)に日本美術院同人となった。1935年(昭和10年)、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)日本画科教授に就任。1936年(昭和11年)、第1回帝国美術展『鴨』で推奨第1位となり、注目される。1942年(昭和17年)から戦後にかけて新文展、日展の審査員を務めた。1944年(昭和19年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の講師に就任。1947年(昭和22年)、帝国芸術院の会員となる。1948年(昭和23年)以降は院展を主とし清流会、彩交会などに作品を出品。対象は花鳥、人物、風景と幅広いが、篤実で深く温かみのある観照の姿勢が一貫し、バレリーナの谷桃子をモデルにした『踊り子』、『鳴門』、『朝市の女』、『醍醐』、『僧』などの代表作を発表した。1949年(昭和24年)、女子美術大学の教授に就任。1953年(昭和28年)には多摩美術大学の教授も歴任した。1959年(昭和34年)、日本美術院の理事に就任。1962年(昭和37年)、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)、日本美術院の理事長に任命される。1988年(昭和63年)、白寿を記念して、天皇陛下より銀杯三ツ重、皇太子殿下より御所の紅白梅を賜る。晩年も毎年院展に出品を続け、描くことのみに専心した人生は「画聖」とも言われた。この頃には富士山を多く描き、100歳を超えて出品した第75回院展の『平成の富士』が遺作となった。1990年(平成2年)9月25日午後6時8分、脳梗塞のため東京都港区の虎の門病院で死去。享年101。没後、従三位に叙せられる。


奥村土牛(1889~1990)_f0368298_17595931.jpg

奥村土牛(1889~1990)_f0368298_17595859.jpg

日本画壇の長老として101歳の天寿を全うするまで絵筆を取り続けた奥村土牛。刷毛で胡粉などを100回~200回塗り重ねを繰り返す独特な技法で非常に微妙な色加減を出すことに成功し、日本画の新生面を切り開いた。また、70歳のときに日本画の領域を超えたといわれる『鳴門』を、83歳には名作『醍醐』を描き上げるなど、大器晩成の画家ともいわれた。最晩年まで院展に出品し続けた奥村土牛の墓は、東京都世田谷区の常栄寺にある。墓には「奥村家之墓」とあるのみで、墓誌はない。

by oku-taka | 2020-12-28 20:03 | 芸術家 | Comments(0)