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志村けん(1950~2020)

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志村 けん(しむら けん)

コメディアン
1950年(昭和25年)~2020年(令和2年)

1950年(昭和25年)、東京都北多摩郡東村山町(現在の東京都東村山市)に生まれる。本名は、志村 康徳(しむら やすのり)。父は厳格な人物で、彼の支配する家庭は重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。東村山市立東村山第二中学校在学時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、第1期生となる。同高ではサッカー部に所属し、GKとして在籍した。1968年(昭和43年)2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。その後、加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。1972年(昭和47年)、井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年(昭和48年)12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した。1974年(昭和49年)3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと、加藤の推薦により若手の志村が起用された。24歳でドリフメンバーとなり、ギターを担当するようになったが、2年間ほどはギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。1976年(昭和51年)3月6日、『8時だョ!全員集合』の公開生放送(新潟県民会館)での「少年少女合唱隊」コーナーで、新潟にちなんだ歌として『佐渡おけさ』を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の『東村山音頭』を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。これが転機となり、一躍人気者となった一方、東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。以後、いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当し、『全員集合』の後半コントなどでは女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回った。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。また、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが人気を呼ぶ。1979年(昭和54年)に加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年(昭和55年)には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。1981年(昭和56年)2月18日、仲本工事、TBSプロデューサーの居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾った。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。1985年(昭和60年)、『全員集合』が終了。後番組として1986年(昭和61年)に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。1996年(平成8年)にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年(平成12年)まで担当した。一方、突如として「志村けん死亡説」がパソコン通信などを通じて全国的に流布する。噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。この時期、志村けんは健康体で、入院が必要な大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明だが、「志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことで志村が自殺したのではないか」「収入が無くなって死んだ」などという噂が週刊誌などでも広まった。騒動が収まったのち、高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。1997年(平成9年)後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし、以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものであった。一方、『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた志村だったが、1999年(平成11年)には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に出演。自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と後に出演の理由を明かしている。2000年代になってからは健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。また、お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会である「THE MANZAI2014」では審査員として出演した。2004年(平成16年)4月15日、自身がMCを務める『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1,000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、後に「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。2006年(平成18年)4月、理想のお笑いを追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。2007年(平成19年)6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。2008年5月から7月にかけて、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。その後も『志村魂』の上演に力を注いでいたが、2016年(平成28年)8月19日に肺炎で入院した事が判明。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであったが、この件にショックを受け、その後禁煙をした。ただ、長年の喫煙習慣が一因となり肺気腫を患ったとされる。また、2018年(平成30年)に肝硬変と診断され、当時周囲に「バカ殿はもうできない」と弱音を漏らしていた。2020年(令和2年)2月22日、東京都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声が出たものの、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった。しかし、3月17日に倦怠感を訴え、自宅で静養。19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に医師による訪問診察で重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった。入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明した。24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区の国立国際医療研究センター病院へ転院してECMOを装着。入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られた。また、同日には保健所による調査で、3月17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、感染経路については不明とされた。検査結果を受け、同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり、3月26日には同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表した。3月29日23時10分、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う肺炎のため死去。享年71。死去の時点で自身の舞台志村魂、志村けんショーの地方公演の予定が組まれていた他、映画主演、朝の連続ドラマ『エール』に出演が決まっており、俳優業にも本腰を入れて掛かろうとしていた矢先の悲劇だった。


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2020年、中国で最初に感染が報告された新型コロナウイルスは世界中に広がり、パンデミックを引き起こした。日本の著名人も多くが罹患したが、その中でもコメディアンの志村けんがこの病で亡くなったことは、大きな衝撃を与えた。70歳を迎えてからも『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』など数多くのバラエティー番組で精力的な活動を続けていただけに、その死はウイルスの恐ろしさを身近に感じる契機ともなった。ザ・ドリフターズのメンバーとして「おこっちゃヤーヨ!」「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」「カラス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」等のギャグを繰り出し、『東村山音頭』「ヒゲダンス」で社会現象を巻き起こすなど、数々のギャグと特異なキャラクターで国民的な人気を博した。平成に入ってからも、「ひとみ婆さん」「変なおじさん」「バカ殿」と次々に印象的なキャラクターやギャグを生み出し、日本を代表するコメディアンとしてお笑い界のトップを走り続けた。亡くなる直前まで自らの冠番組でコントを披露し、芸能界に大きな功績を残した志村けんの墓は、東京都東村山市内にある。菩提寺の梅岩寺より少し離れた場所に位置するひっそりとした共同墓地に「志村家之墓」があり、左側に墓誌が建つ。戒名は「瑞心院喜山健徳居士」。
by oku-taka | 2020-12-27 18:31 | コメディアン | Comments(0)