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中曽根康弘(1918~2019)

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中曽根 康弘(なかそね やすひろ)

政治家
1918年(大正7年)~2019年(令和元年)

1918年(大正7年)、群馬県高崎市末広町に生まれる。高崎北尋常小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。同大学を卒業後、内務省に入省。東京府属となったが、短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受ける。1941年(昭和16年)、4月18日附で海軍主計中尉に任官。8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される。高知県の土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた後、11月20日に第二設営班班員へ補職。11月26日に広島県呉市の呉鎮守府に到着。第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦・一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかった。12月8日の太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島のダバオに上陸。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた。次にボルネオ島のバリクパパンに向かったが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち4隻が撃沈される。1947年(昭和17年)1月24日、バリクパパン沖で日本軍輸送船団約20隻が急襲上陸のために停泊したところ、オランダとイギリスの駆逐艦と思しき敵艦艇と潜水艦が殴り込みをかけてきた(バリクパパン沖海戦)。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた。この戦いで戦死した23人の仲間達の遺体をバリクパパンの海岸で荼毘(火葬)に付した。後に中曽根は「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」と語っている。その後も主計科士官として従軍。3月10日に台湾の馬公に転任して海軍建築部附となり、11月に大尉へ昇進。1943年(昭和18年)8月18日附で高雄海軍施設部部員(高雄警備府)に任命された。1944年(昭和19年)11月1日、横須賀鎮守府附となる。終戦時の階級は海軍主計少佐であった。終戦後、内務省に復帰し、官房調査部でアメリカ軍との折衝を担当。このとき、アメリカ軍将校との交流を通してアメリカ流の民主主義に触れる一方で、日本が占領されたことへの無念さや悔しさを抱えていたことも、後に政治家を志す原点となった。その後、内務省大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務め、1946年(昭和21年)に内務省を依願退職。1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で立候補し、全国最年少(28歳)で初当選。同時に自身の思想運動の拠点となる青雲塾を設立した。初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をし、若い頃から総理大臣を目指すことを公言するなど、大胆な発言やパフォーマンスを好んだ。また、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。1953年(昭和28年)、ハーバード大学の夏期セミナーに留学。大学院生だったキッシンジャーなどと人脈を築いた。1954年(昭和29年)3月、当時の日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算」を国会に提出して成立させる。一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円)した一方、正力松太郎に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。正力と2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。1955年(昭和30年)の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。1956年(昭和31年)、『憲法改正の歌』を発表。改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成」等と述べたため、社会党や共産党が抗議し、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除された。1959年(昭和34年)、第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。原子力委員会の委員長に就任するなど党内で頭角を現した。1965年(昭和40年)、福井県の九頭竜ダム建設を巡る落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がる。1966年(昭和41年)、旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。1967年(昭和42年)、第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。中曽根はこの変わり身について、佐藤が沖縄返還を目指していたことからそれに協力することにした旨を説明している。運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年(昭和43年)4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会う。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作ら反対同盟と面会。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場で同意している。同年、プロスポーツ団体の連合体である日本プロスポーツ会議創立に伴い初代会長に就任。1970年(昭和45年)、第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。就任直後、「第一線級の隊員と話し合いたい」と語り、1月21日にはT-33練習機で千歳基地を訪問して、食堂で隊員らと飯を食っている。また、防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが、3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際、中曽根は同席する本人を前に「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨を言い放ち、議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された。1971年(昭和46年)、第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。こうして要職を経験する中で、「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年(昭和47年)の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。このように少数派閥を率いるがゆえに自民党内の合従連衡に腐心しただけでなく、資金調達にも苦労し、殖産住宅事件で起訴された東郷民安が旧制静岡高の同級生である中曽根から自民党総裁選のための資金提供を頼まれ一部の自社株売買を行ったと主張したことから、後に証人喚問を受けることとなる。1972年(昭和47年)、第1次田中角栄内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)。第2次田中角栄内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。1974年(昭和49年)、三木内閣で幹事長に就任。三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選。1977年(昭和52年)、福田赳夫内閣改造内閣でまた総務会長となる。会長に就いた後は福田に接近し、まとめ役とされる総務会長ながら、政権ナンバー2で福田の潜在的ライバルの大平幹事長の政策とは逆方向の発言を繰り返す。1978年(昭和53年)2月頃から「国民の協力を得て自衛隊の近代化、装備の充実を長期的な計画で進めなければならない」などとタカ派的主張を全面に出すようになる。3月の成田空港管制塔占拠事件に対しては「成田の過激派は迫撃砲を使ってでも退治せよ」と発言して、総務会を過激派取り締まりの新規立法など強硬路線でまとめ上げ福田首相に直訴した。4月に武装中国漁船が大挙して尖閣諸島周辺領海に侵入して操業を行った事件では「自衛隊を出動させろ」と主張した。栗栖弘臣統幕議長が金丸信防衛庁長官に解任された際には、問題とされた来栖発言の主旨である有事法制必要論を肯定する発言をしている。1978年(昭和53年)、自由民主党総裁選挙に初出馬。「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で名乗りをあげ、一時は予備選挙で大平を上回り2位につけるという世論調査が出るほどであったが、予備選挙の結果は大平が1位で中曽根は3位となる。第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示されて拒否した。非主流派としていわゆる「四十日抗争」時には大平正芳首相に対して退陣を要求するなど反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣の行政管理庁長官に就任。鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ、鈴木善幸首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫の信頼も得ることになった。1982年(昭和57年)11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書であった早坂茂三に引き合わせて働きかけた。「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり、田中派の支持を得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得。鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。三角大福中では最後、のべ6度の閣僚経験と2度の党三役経験を経ての首相就任であった。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ、従来の官僚頼みの調整型政治を打破して私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。ただし、政権発足初期は総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。1983年(昭和58年)1月の訪米に先立ち、中曽根は電話会談から1ヶ月あまりで総理大臣として戦後初となる韓国公式訪問を実現。全斗煥と個人的な信頼関係を構築した。アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」および「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアが全く無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。1月、ワシントン・ポストが、同紙会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われた朝食会にて、中曽根が日本列島を空母に見立てて津軽海峡を封鎖しソ連の進出を防ぐ趣旨の発言をしたとする旨を報じた。日本政府は同行記者団にこの発言を紹介していなかったため、記者団が政府側に確認を求め、専守防衛からの逸脱であるとして議論を呼ぶ騒動となった。当時ワシントン・ポストで本記事を担当していたドン・オーバードーファーによれば、この「不沈空母」発言は、中曽根が日本語で「大きな船」と述べたのを通訳が過大な言葉に訳していたものであり[44]、中曽根も発言後にその趣旨の説明をしている。5月、ウィリアムズバーグ・サミットに出席。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否かであったが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議は今にも決裂しそうな気配を見せていた。そうした状況の中、中曽根は「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。そして政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長のための10項目からなる共同指針が示された。1983年(昭和58年)6月の参院選に当たっては、3年前と同様の同日前も取り沙汰されたが、中曽根はそれを選択せず参院選のみが挙行され、68議席を得てまずまずの勝利を収めた。11月、中国の総書記として初となる胡耀邦の訪日を実現。「日中友好21世紀委員会」(現在の新日中友好21世紀委員会)を発足させることで合意した。しかし、10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受けた後の12月の総選挙(田中判決選挙)では自民党が過半数割れし、党内反主流派から批判が噴出したが決定打もなく、「いわゆる田中氏の政治的影響力を一切排除する」という総裁声明を出すことで危機を乗り切った。国会では新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員会委員長として迎える苦渋を味わった。党内の批判は翌年の総裁選に向けてくすぶり続け、鈴木善幸前首相や福田赳夫元首相、野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが頓挫し、中曽根を牽制し続けた長老の影響力が落ちる事になった。第2次中曽根内閣第1次改造内閣では、内閣官房副長官に山崎拓を抜擢した。1985年(昭和60年)2月、田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。同年、プラザ合意により円高を容認。また、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行った。国鉄民営化には左翼陣営が結束して反対。11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏と京阪神の国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。12月には内閣改造を行い(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)、農林水産大臣に羽田孜を、自治大臣に小沢一郎を起用する。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年(昭和61年)7月の衆院選と参院選で自民党を圧勝させた。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た一方、日本社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、国鉄の分割民営化が事実上決まった。勝利した中曽根は“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。同年に発生した伊豆大島の三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。また、三里塚闘争が継続する中であったが、成田空港二期工事着工を決断した。性風俗店の摘発やお色気番組の規制にも力を入れ、風俗営業法を大幅に改正し風俗店の出店区域を大幅に制限し、日またぎ営業を禁止し、テレビコマーシャルを禁止するなどしたため、同時期に起こったエイズ騒動とともに、「日本における性風俗産業は壊滅した」という風説が流れるほどになった。教育改革については、文部省と日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため、自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後、臨教審の答申は受け継がれ、内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、西義之、佐藤誠三郎など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。ハイテク景気やバブル景気といった好景気を演出し、支持率も高水準を維持して自民党も単独で史上最多の議席を獲得するとともに、任期後半には田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったため、これが結果的に日本をバブル経済に突入させた。また、9月に藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言したことから「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言したことは北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。その後も「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を翌年の通常国会で導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、支持率が一時的に急落する。1987年(昭和62年)、ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした「防衛費1%枠」撤廃を明言。予算審議は空転を続けたが、この決定により日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。4月の統一地方選も敗北し、党三役の総辞任論や内閣の早期退陣論さえ囁かれ始めた。翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に、下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」であり、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。しかし、統一地方選での敗北や売上税を巡る混乱は、皮肉にも党内に「厭戦ムード」をもたらし、次期総裁は公選ではなく「話し合い」で決めるべきという雰囲気が高まっていく。中曽根はこれを利用し、有力候補の三人を巧みに分断、秋までには支持率が回復したこともあり、次期総裁を自らの裁定に委ねさせることに成功する(中曽根裁定)。こうして、中曽根はニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちから、竹下を後継に指名、余力を持ったまま11月に総理を退任した。中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下が最もふさわしいと判断したという。首相在任1,806日は歴代7位(戦後5位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。1989年(平成元年)、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれるリクルート事件が直撃。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの、1991年(平成3年)には復党した。同年、湾岸戦争で中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サッダーム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。1994年(平成4年)、首班指名選挙で村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。鳩山由紀夫は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指してユートピア政治研究会を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫して主張。首相退任後は議会最後尾にある通称長老席に陣取っていた。宮澤喜一、竹下登とともに居眠りをしている姿が老害の象徴としてマスコミに盛んに揶揄された。1996年(平成8年)、小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに、比例北関東ブロックでの終身1位の保証を受ける。1997年(平成9年)2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に大勲位菊花大綬章を生前受章する。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受け、第18回参議院議員通常選挙では自民党派が大敗。橋本龍太郎は総理を辞任した。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後、1999年(平成11年)に亀井静香や平沼赳夫率いる亀井グループと合併し志帥会となり、最高顧問に就任する。2000年(平成12年)、自民党は比例区における73歳定年制を導入。原健三郎・櫻内義雄の両元衆議院議長がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤喜一は特例により比例区定年制対象外となっている。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判が上がり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁が中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、立候補断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した。最終的に中曽根は2003年(平成15年)の総選挙で自民党の比例北関東ブロックからの立候補を断念し、衆議院議員から引退した。引退後は財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。2008年(平成20年)12月7日、自宅で転倒。右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年(平成21年)3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けていた。また、同年10月に急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られた。2013年(平成25年)12月4日、国会近くにある東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われた。2015年(平成27年)5月には97歳の誕生日を迎え、8月7日の読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。2018年(平成30年)5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた。この頃は、足腰が衰えたものの都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしていた。晩年は入退院を繰り返し、最期となる2か月間は入院していたものの「医者も説明できないような生命力があり、元気に過ごして」おり、病室でも相変わらず新聞に線を引きながら3、4時間もかけて端から端まで読んだり、テレビで国会中継を見たりしていた。2019年(令和元年)11月29日午前7時22分、老衰のため東京都内の病院で死去。享年101。没後に従一位に追叙(進階)され、大勲位菊花章頸飾を追贈された。


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首相在任1,806日、内閣3次4年11ヶ月に及ぶ長期政権を担った中曽根康弘。「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米関係の改善といった大事業を成し遂げた。また、大勲位菊花大綬章を生前受章し、90歳を超えても政界で大きな発言力を持っていたことから、晩年は保守界の巨星ともいうべき位置に君臨していた。しかし、彼の政治人生はまさに「風見鶏」でのし上がったものであり、批判していた佐藤栄作や師弟関係の渡辺美智雄をも平気で裏切るなど、自らの地位向上のためには血も涙もない政治家であった。また、パフォーマンスを重要視した人としても知られ、「ハイ、ロン。ハイ、ヤス」からなるアメリカのレーガン大統領との蜜月アピール、演出家の浅利慶太をブレーンに迎えてレーガンの日の出山荘対談を実現させるなど、興味を引く自己演出の上手さは歴代総理大臣の中でも群を抜いていた。総理大臣退任後は自民党の73歳定年制に反抗し、抗議している姿が度々メディアに報じられていたが、そのワガママにも似た抵抗する姿は、幼い私にとって老醜にしか見えなかった。没後、中曽根の合同葬を巡って国費9600万円の支出や政府が全国の国立大などに弔意の表明を求める通知を出したことが不適切だとして大批判を浴びたが、「この人は死してなお目立ちたいのか」と個人的にも呆れてしまった。昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者として、101歳の天寿を全うした中曽根康弘の墓は、東京都西多摩郡の秋川霊園にある。広大な敷地の墓には「中曽根家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「烔眼院殿康寧国歩大居士」。

by oku-taka | 2020-12-27 03:30 | 政治家・外交官 | Comments(0)