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池田彌三郎(1914~1982)

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池田 彌三郎(いけだ やさぶろう)

国文学者・民俗学者
1914年(大正3年)~1982年(昭和57年)

1914年(大正3年)、東京市京橋区(現在の東京都中央区)にあった銀座の天麩羅屋「天金」の次男として生まれる。京橋区立泰明小学校から東京市立第一中学校(現在の東京都立九段高等学校)を経て、1931年(昭和6年)に慶應義塾大学経済学部予科へ入学。1934年(昭和9年)、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。折口の学問を継承するとともに地方の民俗や芸能調査の旅をし、日本文学や民俗学、芸能史の研究を通じて独自の学風を開いた。また、戸板康二たちと共に折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加した。1937年(昭和12年)、慶應義塾大学文学部国文科を卒業。大学院に進んだが間もなく兵役となり、5年間の軍隊生活を送る。1947年(昭和22年)、慶応義塾大学の講師となる。1957年(昭和32年)からNHKのクイズバラエティ番組『私だけが知っている』に出演。このほかNHK解説委員、横綱審議会委員、放送用語委員、国語審議会委員など幅広く活動し、タレント教授の走りとしても知られた。学者としても、『文学と民俗学』 (1956年)、『日本人の芸能』(1957年)、『日本芸能伝承論』(1962年) など多数の論著に加え、随筆も発表。1961年(昭和36年)には慶應義塾大学の教授となり、定年まで勤続した。同年、雑誌『婦人公論』に「大学女禍論」と題する一文を発表し、早稲田大学教授の暉峻康隆と共に、女子学生亡国論を唱えて物議を醸した。また、慶應義塾大学文学部を受験する学生に対して国語の試験をするなどとは失礼であるとして、入試教科からいち早く国語を廃止して、小論文を導入させた。一方で、国文科で国語の作問をするのは面倒臭いし、負担が大きいとも述べた。英語の試験で国語力はわかるという考え方から、慶應義塾大学文系では国語の試験がない。1977年(昭和52年)、紫綬褒章を受章。1980年(昭和55年)、慶應義塾を定年退職。慶應義塾大学工学部長の森為可から主任教授就任の打診を受け、洗足学園魚津短期大学教授に就任した。しかし、赴任の前々日に銀座を歩いていたところ、足がもつれて動けなくなり、4月上旬には魚津に到着してから高熱を発して寝こみ、5月には帰京して入院。池田は家では飲まなかったが銀座を12~3軒はしごして飲み歩く酒豪で、このときすでに慢性肝炎にかかっていた。1982年(昭和57年)に入って急速に肝硬変の症状が現われはじめ、5月に吐血し、12日には救急車で魚津から東京まで9時間走って東京女子医大病院に入院した。入院後も東京の店の名をメモさせ、それを回って歩くことをうわごとのように口にしていたが、次第に意識不明の状態となり、7月5日午前11時過ぎ、肝硬変による動脈瘤破裂で死去。享年67。


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今や大学教授が情報番組やバラエティー番組ののコメンテーターとしてテレに出るのが当たり前の時代となっているが、そうしたタレント教授の走り的存在なのが慶應義塾大学の池田彌三郎。NHKの『私だけが知っている』にレギュラー出演してお茶の間に知られる存在となり、審議委員会も多く歴任。慶應義塾大学の名物教授となった。池田彌三郎の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。洋形の墓には直筆で「池田」とあり、左側に墓誌がある。

by oku-taka | 2020-12-20 00:43 | 学者・教育家 | Comments(0)