人気ブログランキング | 話題のタグを見る

中西悟堂(1895~1984)

中西悟堂(1895~1984)_f0368298_13500442.jpg

中西 悟堂(なかにし ごどう)

野鳥研究家
1895年(明治28年)~1984年(昭和59年)

1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれる。出生名は、富嗣。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)のの養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び、千字文を書写する。おもちゃは持たず、友達とも遊ばず、石板と石筆さえ与えておけば機嫌よく一人で遊んでいる子であった。1900年(明治33年)、東京府麻布区飯倉町の小暮小学校に入学。早熟ゆえ就学年齢前の入学だったが、発育不全で歩行困難のため、爺やに背負われて登校した。翌年、養父が渡米したため、京橋区西紺屋町に住む別の伯父に預けられ、築地の文海小学校へ転校。1905年(明治38年)、養父が帰国し、上野寛永寺内の東叡山東漸院に転居。桜川小学校高等科に進学した。この頃、養父の教化により、秩父山中の寺で百八日の坐行、各二十一日間の滝の行、断食の行を行なったことで健康となり、一種の透視力を体得。この荒行の際に肩や膝にとまりにきた鳥に親しむ。1907年(明治40年)、高等科を卒業。京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公したが、養父・祖母とともに神代村(現在の東京都調布市)の祇園寺に移住し、深大寺に預けられる。1910年(明治43年)には火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学した。1911年(明治44年)、仏門に帰依。法名を悟堂とし、天台宗深大寺にて僧籍につく。翌年、天台宗学林(後の大正大学)2年に入る。この頃より短歌を始め、次第に詩人と交わるようになり、その関心は短歌から詩へ移る。1913年(大正2年)、法王教を唱えた高田道見の認可僧堂瑞応寺で禅生活に入る。別子銅山で説教師を務めたのち祇園寺に戻り、1914年(大正3年)に曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通う。この頃、海水浴中にフジツボで角膜を傷つけ、以降眼病を患う。高田道見の仏教新聞社を手伝いつつ詩壇に入り、東雲堂書店に移り短歌雑誌の編集に従事していたが、義理の妹と祖母を相次いで亡くし、放浪の旅に出る。1920年(大正9年)、島根県能義郡(現在の安来市)の長楽寺の住職となり、1922年(大正11年)には松江市の普門院の住職となる。同年、第一詩集『東京市』を出版。その後、詩集『花順礼』、『武蔵野』を出版する。1926年(昭和元年)、千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、詩壇と決別して本格的に作家を目指し、田園生活に入る。質素な生活とともに昆虫や野鳥の観察も始め、3年半の生活を経て杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組む。この頃から日本全国の山々を巡り野鳥の観察を行う。一方、自宅では野鳥を放し飼いにして注目を集める。1932年(昭和7年)、『虫・鳥と生活する』を出版。1934年(昭和9年)、鳥学者の内田清之助や黒田長礼、鷹司信輔、山階芳麿。民俗学者の柳田國男、荒木十畝、杉村楚人冠、新村出、戸川秋骨などの文化人の後援を得て「日本野鳥の会」を創立し、機関誌『野鳥』を発刊。それまで日本人の野鳥とのかかわりは飼い鳥として籠の中の鳥の鳴き声や姿を楽しむか、狩猟や食肉の対象としているものであった。悟堂はそのような習慣をやめて「野の鳥は野に」と自然の中で鳥を楽しむことを提唱。そのため、会創立の目的は、鳥類愛護の思想の普及と、鳥類研究の推進が掲げられた。6月には、富士山裾野の須走において、後に「探鳥会」と呼ぶようになる初めての野鳥観察会を開催。探鳥ブームの基礎を築いた。また、当時流行していた飼い鳥の廃止を訴え、「かごの鳥」追放運動を展開した。会員は悟堂の知己である文学者、鳥類学者などの文化人や貴族などに限られたが、精力的な活動により、徐々に各地に支部が設立され、会員も増加する。1936年(昭和11年)、竹野家立、籾山徳太郎らとともに、鷹狩の保存・振興のため、「日本放鷹倶楽部」の設立に発起人として参加。1947年(昭和22年)、休止状態にあった日本野鳥の会を再開。その後は、カスミ網禁止の法制化、サンクチュアリーの設置など、自然保護や野鳥保護活動に尽力し、鳥獣保護法の制定にも貢献した。1957年(昭和32年)、『野鳥と生きて』で日本エッセイストクラブ賞を受賞。1961年(昭和36年)、紫綬褒章を受章。1965年(昭和40年)、『定本野鳥記』で読売文学賞を受賞。1972年(昭和47年)、勲三等旭日中綬章を受章。1977年(昭和52年)、文化功労者に選出。1980年(昭和55年)、永年務めた日本野鳥の会の会長を辞任。翌年に名誉会長となったが、この間、国際鳥類保護会議日本代表、日本鳥類保護連盟専務理事なども務めた。また、晩年は野鳥のサンクチュアリ(聖域)造成に情熱を燃やした。1984年(昭和59年)12月11日午後8時、転移性肝臓癌のため神奈川県横浜市港南区の港南台病院で死去。享年88。


中西悟堂(1895~1984)_f0368298_13500431.jpg

中西悟堂(1895~1984)_f0368298_13500407.jpg

中西悟堂(1895~1984)_f0368298_13500426.jpg

日本で初めて鳥の保護を唱えた中西悟堂。「野のものは野に置け」という思想から「野鳥」という言葉を生み出し、「日本全国から飼い鳥をなくそう」と考えて「日本野鳥の会」を創設するなど、日本における野鳥の研究・保護の礎を築いた。また、少年期に短歌や詩歌を嗜んだことから文章にも優れ、野鳥についての随筆で日本エッセイストクラブ賞や読売文学賞にも輝いた。生涯をかけて野鳥保護思想の普及と、鳥類研究の推進に力を尽くした中西悟堂の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。墓には「中西家之墓」とあり、左側に墓誌、右側に悟堂の横顔レリーフと「野鳥の父 中西悟堂ここに眠る」と彫られた碑が建つ。戒名は遺言により付いていない。

by oku-taka | 2020-11-29 19:47 | 学者・教育家 | Comments(0)