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岸田森(1939~1982)

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岸田 森(きしだ しん)

俳優
1939年(昭和14年)~1982年(昭和57年)

1939年(昭和14年)、東京市杉並区阿佐ヶ谷(現在の東京都杉並区阿佐谷)に生まれる。劇作家の岸田國士は伯父、童話作家の岸田衿子や女優の岸田今日子は従姉に当たる。1944年(昭和19年)、疎開先の箱根町立湯本小学校へ入学。1947年(昭和22年)に帰京し、千代田区の九段小学校へ転校する。その後、麹町中学校から海城高等学校に進学。一浪した後、1958年(昭和33年)に法政大学英文科へ入学するが、2年生の時に俳優の道を志して中退。1960年(昭和35年)、伯父である劇作家の岸田國士が代表を務めていた文学座の附属演劇研究所に研究生として入団。同期には、悠木千帆(後の樹木希林)、草野大悟、寺田農、小川真由美らがいた。ここでは、研究発表会のような内輪の演劇ばかりが続き、後に「年間収入が2〜3万円という暮らしが5〜6年続いた」と語っている。1962年(昭和37年)、文学座に正式入団し、翌年の『調理場』で初舞台を踏む。この頃、文学座の中堅以上の団員達が二度にわたって脱退するという騒動を起こし、岸田は積極的に舞台へと起用される。同年、NET(現在のテレビ朝日)の『短い短い物語』で初のTVデビューを果たす。1964年(昭和39年)、悠木千帆と結婚。1965年(昭和40年)、文学座の座員に昇格。しかし、1966年(昭和41年)年頭に退団。悠木、村松克己、草野大悟らと劇団「六月劇場」を結成し、以降は主に映画・テレビに活躍の舞台を移す。テレビでは、人気ドラマ『氷点』にレギュラー出演し、お茶の間に顔を知られるようになる。映画においては、岡本喜八、実相寺昭雄、神代辰巳、西村潔、工藤栄一などの監督作品の常連で、特に岡本喜八監督作品には多数出演。『斬る』での初出演から亡くなるまでの監督作品14本中12本に出演し、後期「喜八一家」のキーマン的存在であった。1968年(昭和43年)、悠木と離婚。1968年(昭和43年)、脱『ウルトラマン』化を目指していた円谷プロが製作したドラマ『怪奇大作戦』(TBS)に出演。冷静な科学者・牧史郎役を演じる事になった岸田は、これが円谷プロとの初仕事となり、この作品への出演が自身の芝居の一大転機になった。数多くの登場人物がひしめく中で存在感を発揮し続け、第4話「恐怖の電話」を皮切りに、主役級の出番を与えられるようになる。後に「新劇をやっている自分のほうが不自然なんであって、心の中では僕は円谷育ちなんです。僕の芝居が他の役者に比べより豊かな飛躍のイメージがあるなら、それは円谷プロから教わったものです」と語り、「僕は円谷育ち」と公言。以後、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)、『ファイヤーマン』(1973年)と円谷プロの作品にレギュラーで出演する一方、『シルバー仮面ジャイアント』(1972年・宣弘社)、『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年・東宝)と他社の特撮作品にも出演。『ウルトラマンA』(1972年)、『スーパーロボット マッハバロン』(1974)ではナレーションを務めた。1971年(昭和46年)、東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、和製ドラキュラとの評価を得る。この東宝『血を吸う』シリーズは代表作となり、存在感のある脇役俳優として地位を固める。また、実相寺昭雄監督の『曼陀羅』『哥(うた)』『あさき夢みし』『歌麿・夢と知りせば」』に連続して出演。特に主演した「歌麿」では屈折した画家像を演じ、カンヌ映画祭でも上映され話題を集めた。1973年(昭和48年)、円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。脚本を手がけた第12話「地球はロボットの墓場」では、岸田の演ずる水島隊員が全くセリフを話さず、その動作と口の微かな動きだけで感情や意思を表現するなど、実験的な演出も行った。1974年(昭和49年)、バーのマダムと再婚するが翌年に再び離婚。その後は女優の三田和代と事実婚関係にあった。一方、勝新太郎が岸田の才能と個性を高く評価し、その演技が認められて『新・座頭市』等の時代劇に出演。後に勝が主宰した「勝アカデミー」の講師となり、ルー大柴や小堺一機を輩出した。また、萩原健一が主演した『傷だらけの天使』に脇役として出演したり、松田優作から『探偵物語』のゲスト出演を依頼されたりと、その演技力と人柄が多くの役者に慕われていた。1980年(昭和55年)頃から度々体調が悪化するが、メイクで顔色の悪さを誤魔化し、周囲には「芝居で変な声使ったらこうなった」「痔が痛くて動けない」と誤魔化していた。しかし、食が細くなったことで頬が痩せこけてしまったその姿は隠し通せるものではなく、俳優仲間や親戚から病院での検査を勧められて入院。食道癌の診断が下されたが、本人は「手術をして除去すれば治る」と楽観的で、治療をしながら仕事を入れられる範囲で入れていた。1981年(昭和56年)、久々の特撮にして唯一の東映作品である『太陽戦隊サンバルカン』に出演し、チームを纏めるリーダー・嵐山長官を演じた。また、趣味である蝶の採集を活かして、ドキュメンタリー番組『野生ふれあいの旅』で自ら日本各地を渡り歩き、レポーターとしての評価も受けた。体調も一度は回復し、食欲も戻ったものの、後に再発して声帯から声が出なくなっていく。1982年(昭和57年)のテレビドラマ『可愛い悪魔』出演時には、癌により声が出なくなっていたが、しゃべることのできない役に変更してまでも出演した。晩年には関係者の面会を拒絶し、骨と皮だけになった痛々しい姿で、話すにも母の通訳が必要なほど弱っていた。12月28日午前4時59分、食道癌のため東京都中央区築地の国立がんセンターで死去。享年43。葬儀の際、岸田を弟のように可愛がっていた若山富三郎は弔辞の中で「こんな事になるんだったら、お前を殴ってでも絶交してでも酒を辞めさせるべきだった」と後悔のコメントを残した。葬儀では三田和代が遺影を持ち挨拶した。


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独特の雰囲気と妖しげな色気を匂わせた稀代の個性派俳優・岸田森。特に岡本喜八監督と実相寺昭雄監督作品で見せた、知的でありながらエキセントリックさも漂う癖の強い役どころは、見る者に強烈な印象を残した。また、現在ほど市民権を得ていなかった特撮作品へも積極的に出演し、自ら脚本や演出も務めるなどの熱の入れっぷりを見せた。岸田が「僕は円谷育ち」と公言したことは特撮ファンを喜ばせ、今なお彼の存在はカルト的な人気を誇っている。生前「わずかな出番で作品の印象を一変させるような脇役を目指したい」と語っていた岸田森の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。墓には、2012年(平成24年)に亡くなった兄の名前と共に「岸田蕃 森」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-11-22 19:11 | 俳優・女優 | Comments(0)