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青江三奈(1941~2000)

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青江 三奈(あおえ みな)

歌手
1941年(昭和16年)~2000年(平成12年)

1941年(昭和16年)、東京都江東区砂町に生まれる。本名は、鈴木 静子(すずき しずこ)。旧姓は、井原(いはら)。成徳学園高等部在学時から銀座の「銀巴里」でステージに立つ。高校卒業後は西武百貨店に勤務したが、特徴的なハスキーボイスとリズム感に惚れ込んだ作曲家の花礼二に誘われ、芸能界に身を置く事を反対した家族を振り切って花と一緒に暮らす。花の徹底的な指導を受けた後、鈴原志摩の名前でジャズ喫茶やナイトクラブで歌い、横浜の「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる。鈴原志摩の名前でジャズ喫茶やナイトクラブで歌い、横浜の「ナイトアンドデイ」の専属歌手となる。1966年(昭和41年)、川内康範に見出され、川内の連載小説「恍惚」のドラマ主題歌『恍惚のブルース』でレコードデビュー。このとき、「恍惚」のヒロインから芸名をもらい、青江三奈とする。同じくハスキーボイスの森進一と合わせて「ため息路線」として売り出され、80万枚を売り上げるヒットとなる。同曲のヒットで第17回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしたが、それからしばらくヒット曲に恵まれず、デビュー作で青江を人気歌手に押し上げた川内に再び白羽の矢が立つ。川内は青江が再び売れるようにと、ビクターからの「50万枚は売れる作品で青江を復活させてやれないか」という厳しい課題に取り組み、ご当地ソングとして横浜からさらに絞った伊勢佐木町をテーマに作詞。終盤のスキャットが強い印象を残す歌詞を書き上げ、さらにハスキーで特徴的な青江の声質を印象付けるため「ハーン」というため息を曲中のどこでもいいから入れるように、と青江に依頼。1968年(昭和43年)、川内作詞による『伊勢佐木町ブルース』が発売。前年の秋には同曲のテスト盤が伊勢佐木町の商店街に持ち込まれ、12月には約1,000枚の先行発売が実施。師走の商店街に『伊勢佐木町ブルース』が繰り返し流され、1月の発売以後はキャンペーンで青江伊勢佐木町に幾度となく訪問。これらによって発売から徐々に売れ始め、発売から5ヶ月経ってからオリコンのトップ10に初登場。3週間5位にランクインし続け、青江は復活を遂げる。また、同曲で第10回日本レコード大賞歌唱賞、第1回日本有線大賞スター賞、第1回全日本有線放送大賞優秀スター賞をそれぞれ受賞した。一方、曲中にある吐息部分が、レコード発売時には「“吐息”は子供向きではない」「お色気だ」と指摘され、第19回NHK紅白歌合戦に2年ぶり2回目の出場を果たした時は、NHKの意向によりカズーの音に差し替えられた。以降、NHK紅白歌合戦には第34回まで16年連続で出場した。7月、『長崎ブルース』を発売。200万枚を超すセールスを記録したピンキーとキラーズの『恋の季節」』に阻まれたが、発売5ヵ月後にオリコンの2位まで上昇。累計売上は76.7万枚を記録し、翌年の年間売上第10位を獲得した。1969年(昭和44年)、『池袋の夜』が150万枚を売り上げる自身最大のヒット曲となり、史上初めて2年連続で第11回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。この年のレコード年間売上金額は青江が全歌手の中で1位となった。その後も地方を舞台にした曲を多く歌い、ご当地ソングを次々に生み出す。また、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続け、1970(昭和45)年から1979(昭和54)年までは、マスプロ電工「マスプロアンテナ」のCMに出演。『伊勢佐木町ブルース』の替え歌をサンバイザーにミニスカート姿で披露し、ゴルフのグリーンでパッティングする際にミニスカートの内側が見えるシーンが「お色気コマーシャル」として広く認知された。1984年(昭和59年)、17年間所属していた事務所から独立し、個人事務所「三晋企画」を設立。1990年(平成2年)、デビュー25周年を記念して発表したアルバム『レディ・ブルース』で第32回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。同作のヒットで第41回NHK紅白歌合戦に7年ぶりに通算18回目で出場。この年の12月に亡くなった作曲家である浜口庫之助を偲び、『恍惚のブルース』を披露。これが最後の紅白出演となった。1993年(平成5年)、初のジャズアルバムを発表。ニューヨークでもライブを開催する。1995年(平成7年)には歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、コンスタントに歌手活動を行っていたが、1998年(平成10年)に背中の激痛で受診。このとき膵臓癌と診断されたが、病を隠して仕事をキャンセルせずに歌い続けた。1999年(平成11年)1月23日、渋谷公会堂で催したコンサートを最後に歌手活動を停止。1月下旬に都内の病院へ入院し、膵炎による加療と発表された。2月5日、9時間を要した手術が成功し、約3か月の入院生活を経て同年4月24日に退院。「長年の歌手活動の疲れをとるいい休養になりました」と語っていたが、かなりの内臓を摘出しており、体重も激減した。退院後は抗癌剤の点滴のために通院しながら美容院へ通うなど歌手活動の復帰を図るが、2000年(平成12年)2月に体調が悪化して再入院。膵癌の転移が発覚する。癌の転移が判明した青江は花礼二に直接連絡して19年ぶりに再会し、青江が死去する約2か月前に病床で婚姻届に署名して結婚した。その後は入退院を繰り返したが、7月2日午後11時40分に膵臓癌のため東京都港区の北里研究所病院で死去。享年59。


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ハスキーボイスで夜の世界を歌い上げた青江三奈。金色に染めた髪とゴージャスなドレス姿で夜の街をロマンチックに歌い、その曲の多くがブルースと名の付くものだったことから、「ブルースの女王」の異名をとった。また、東京のみならず、長崎、札幌、神戸、盛岡といった地方を舞台にした曲も多数歌い、元祖「ご当地ソングの女王」としての活躍があったことも特筆すべき点である。その確かな歌唱力は、専門であったムード歌謡はさることながら、ラテン、ポップス、ジャズも見事に歌いこなせる力を持っており、中でもジャズ風にアレンジした『雨に咲く花』のカヴァーは絶品であった。還暦を目前に病に倒れ、早い旅立ちが今なお惜しまれる実力派シンガー・青江三奈の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。墓には「鈴木家之墓」とあり、左側に墓誌、右側に代表曲と「ブルースに永遠の愛と」の文言が彫られた記念碑が建つ。戒名は「謡泉院青江日静大姉」。

by oku-taka | 2020-11-22 01:17 | 音楽家 | Comments(0)