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鶴田浩二(1924~1987)

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鶴田 浩二(つるた こうじ)

俳優・歌手
1924年(大正13年)~1987年(昭和62年)

1924年(大正13年)、兵庫県西宮市に生まれる。本名は、小野 榮一(おの えいいち)。父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかった為、父と母は結婚しておらず、母は鶴田を連れて西宮から静岡県浜松市へと移り住み、別の男性と婚姻した。母は水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母との二人暮らしは極貧そのもので、洗面器で米を炊いていたという。程なくして祖母が他界し、家でたった一人の生活となる。母に会いたさに遊廓へ一人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。そのうえ義父は博打好きで、幼児期には貯金箱を割ってまで金を奪った。14歳のとき、俳優に憧れて、当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。此花商業学校から19歳で関西大学専門部商科に入学するが、その年に学徒出陣令により徴兵。終戦まで海軍航空隊に所属し、その体験が人生に多く影響を及ぼした。また、22歳のときに薬の副作用で左耳が難聴になってしまう。1948年(昭和23年)、高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で松竹に入社。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの最初は大部屋に入れられ、いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演を果たし、佐田啓二、高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われた。1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のプロマイドの売上も1位となる。松竹時代は、甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなした。1952年(昭和27年)、戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロ「クレインズ・クラブ」を興した。恋人と噂された岸惠子と共演した戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さず、鶴田は自殺未遂事件を起こした。同年、『男の夜曲』で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし、戦後の日本を代表する大スターとなっていく。このとき、松竹映画『地獄の血闘』で共演した歌手の田端義夫に歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」という独特の歌唱スタイルになった。他にも右手小指を立て、マイクを白いハンカチで包んで持つ歌唱スタイルでも有名である。1953年(昭和28年)1月6日、大阪・天王寺で鶴田浩二襲撃事件が発生。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、ひばりの後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったが、前年の秋に芸能プロモーターでもある田岡が鶴田のマネージャー・兼松廉吉に「美空ひばりと鶴田のジョイント公演」をオファーしたが断られたのが背景にあった。この時の兼松の横柄な態度が許せず、田岡は山口組組員・梶原清晴に指揮された組員の山本健一・清水光重・益田芳夫・尾崎彰春に直接襲撃の指令を与え、午後7時すぎ、鶴田浩二の宿泊先である大阪市天王寺区大道町の旅館・備前屋で待ち伏せし、軒先に群がるファンらに「鶴田のサインをもらってきてあげる」と言って上がりこんだ。4人が桔梗の間に入ると、鶴田浩二や水の江滝子・高峰三枝子ら10名以上が夕食をとっていた。山本は同席者の面前で鶴田をウィスキー瓶やレンガで殴りつけた。暴行が終わると備前屋を飛び出し、黒塗りの乗用車に乗って逃亡。鶴田は救急車で近くの早石病院に搬送されたが、頭と手に11針を縫う重傷だった。田岡は自伝で「兼松が失礼だから怒鳴ったが、襲撃自体は指示しておらず、組員が勝手にやったこと」と述べているが、警察は西本の協力がなければ襲撃事件が成立せず、堅気の西本が功名心に駆られて襲撃事件を企画する動機がないのだから、田岡の直接の指令があったことは間違いないとみていた。一方、鶴田は事情も知らずに襲撃された為、田岡と面会し釈明を求めて長く語り合った。話し合いの末、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解。親交を深め、「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほど田岡は鶴田を支えていく事になった。映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねると酷い目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)の『野戦看護婦』では、たった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、平凡・明星でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。新生プロは『ハワイの夜』の他『弥太郎笠』などヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ、鶴田は独立プロの難しさを実感。フリーとなり、松竹、新東宝、大映、東宝の各映画会社で主演した。東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同するなどの条項が入っており、鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかし、それは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーは勿論、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝ではスタッフの反発を招いた。同年、海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環ででっち上げ、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。しかし、特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じた。1955年(昭和30年)、大映で山本富士子と共演した衣笠貞之助監督『婦系図 湯島の白梅』がヒット。1956年(昭和31年)の市川崑監督『日本橋』にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取るというスキャンダルを起こし、降板となる。1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続け、岡本喜八監督『暗黒街の顔役』と『暗黒街の対決』は興行的にも作品評価も高い成功作となったが、いずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く、単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂が、第二東映の設立による役者不足を補うため「現代劇も時代劇も出来るいい役者はいないか」と俊藤浩滋に相談し、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と俊藤が鶴田を口説く。当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、東映に円満移籍となった。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べ、ヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた。また、絢爛豪華オールスターキャスト時代劇には一度も招かれず、低予算映画ばかり出され腐っていた。1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演。これが大ヒットしてカムバックに成功。主演で起用した岡田茂プロデューサーは鶴田を任侠映画のスターに押し上げた。ここから任侠映画ブームが始まり、時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど傾いていた東映はこの大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げた。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中で多くの観衆を集め続け、「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」『明治侠客伝 三代目襲名』「関東シリーズ」「博奕打ちシリーズ」と立て続けに主演した。1970年(昭和45年)、吹き込んだ『傷だらけの人生』がヒット。同名で映画化もされた。1972年(昭和47年)以降はテレビにも積極的に出演し、中でも1976年(昭和51年)から1982年(昭和57年)まで放送されたNHKドラマ『男たちの旅路』シリーズは大ヒットとなった。1985年(昭和60年)秋、テレビドラマの撮影中に体調不良を訴えて慶應義塾大学病院に入院。肺癌と診断されたが、本人には本当の病名は伏せられた。翌年には病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』に主演。これが遺作となった。その後退院し、自宅で闘病生活を続けていたが、1987年(昭和62年)5月10日に胸の痛みを訴えて再入院。13日には肺炎を併発し、重体となった。6月16日午前10時53分、肺癌のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。享年62。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せたうえ、棺を旭日旗で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中で出棺となった。


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戦後の映画界のを代表するトップスターの一人、鶴田浩二。歌う映画スターとしての大活躍、特に映画においては、端正な顔立ちの二枚目スターから義理と人情を重んじる男の役へと転身し、昔気質の役者として確固たる地位を確立した。また、映画『雲ながるる果て』で特攻隊員の役を演じて以来、自らの戦争体験と重ね合わせ、戦没者の思いを伝える鎮魂の活動を晩年まで続けた。世の流れに迎合せず、筋を通す生き方を役者として演じ続けた鶴田浩二の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園と和歌山県伊都郡の奥の院にある。前者は広大な敷地に「小野榮一 鶴田浩二」と彫られた洋形の墓があり、右側に墓誌が建つ。戒名は「鶴峰院榮譽誠純悟道大居士」。
by oku-taka | 2020-11-01 23:42 | 俳優・女優 | Comments(0)