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新藤兼人(1912~2012)

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新藤 兼人(しんどう かねと)

映画監督・脚本家
1912年(明治45年)~2012年(平成24年)

1912年(明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町石内)に生まれる。本名は、新藤 兼登。広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで没落。田畑を売り、たったひとつ残った蔵で父母と3人で暮らし、石内尋常高等小学校(現在の広島市立石内小学校)へ通う。1927年(昭和2年)、石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられ、16歳の時には尾道の長兄宅に居候することになる。この頃は何もすることがなかったが、兄に気を遣って家に居づらかったため、毎日尾道の町でぶらぶら過ごしていた。1933年(昭和8年)、徴兵検査が終わった頃にたまたま見た山中貞雄監督の映画『盤嶽の一生』に感激。映画を志し、京都へ行くことを決める。交通費を貯めるため、兄の紹介で自転車卸「山口バイシクル商会」に勤務。その後、兄の紹介で京都府警察の刑事の伝手を頼りに、京都へ出る。すぐには撮影所に入ることが出来ず、絶望して一度は尾道へ帰るが、諦めきれずに再び京都へ戻る。1934年(昭和9年)、新興キネマに入る。志望していた映画助監督への道は狭く、体が小さいため照明からも敬遠され、入ることが出来たのは現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる。しかし、目指していた創造する世界とはかけ離れた、長靴を履きながらの辛い水仕事を1年ほどつとめる。この頃、撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見し、初めて映画がシナリオから出来ているものと知った。その後、新興キネマ現像部の東京移転に同行し、美術部門に潜り込む。美術監督であり美術部長である水谷浩に師事し、美術助手として美術デザインを担当した。仲間からは酷評されても、暇を見つけてはシナリオを書き続けて投稿。賞を得るが、映画化はされなかった。1940年(昭和15年)、家が近所だった落合吉人が監督に昇進したことで脚本部に推薦され、『南進女性』で脚本家デビュー。1941年(昭和16年)、溝口健二監督『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」というばかりで何も俳優に教えないため、他の俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。しかし、出来上がった作品を見て感銘を受け、伝手を頼り溝口の内弟子になる。シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され、自殺を考える程の大きなショックを受ける。スクリプターをしていた内妻・久慈孝子の励ましで奮起し、劇作集を読みあさり再出発を誓う。1942年(昭和17年)、情報局の国民映画脚本の公募に応募し、佳作に終わる。翌年『強風』が当選。1944年(昭和19年)、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され、東京本部へ移籍。4月、脚本を1本も書かないうちに日本海軍に召集され、二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団。任務は“掃除部隊”で、最初は奈良天理教本部宿舎に海軍飛行予科練習生が配置されることになったため、次に兵庫宝塚歌劇団の宝塚大劇場や宝塚音楽学校に潜水艦乗りや航空隊(宝塚海軍航空隊)が配置されることになったため、そこを掃除するというものだった。既に32歳ながら年下の上等水兵の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。この間、内妻の孝子は結核に罹るが、貧しさのためろくに栄養をつけることができず死去している。1945年(昭和20年)の終戦後は、東京でのアパートは空襲により焼けていたため、一旦尾道の兄のところに身を寄せた後、松竹大船撮影所に復帰するため上京する。この年の秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』として映画化され、1947年(昭和22年)のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。同年、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表。大ヒットし、キネマ旬報ベストテン1位も獲得。シナリオライターとしての地位を固めた。その後は吉村とのドル箱コンビで『わが生涯のかゞやける日』などのヒット作を連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く傍ら、溝口のために『女性の勝利』と『わが恋は燃えぬ』を執筆した。一方、34歳のときに美代と結婚。美代とは60歳まで婚姻関係を続けている。1949年(昭和24年)、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」とクレームをつけるに及び、自らの作家性を貫くため、1950年(昭和25年)松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。1951年(昭和26年)、大映から請け負う形で近代映画協会初の作品として『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす。主演は大映人気スターの乙羽信子 で、乙羽がこの脚本を読んでどうしても妻の役をやりたいと願い出てきたこと、新藤としては愛妻物語のモデルである内妻・孝子と乙羽がよく似ているから、との理由で決まった。また、大映に持ち込んだ『偽れる盛装』が1951年(昭和26年)の大ヒット映画となった。1952年(昭和27年)、近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。翌年にはカンヌ国際映画祭に出品したが、当時の日本政府はこれを好ましく思っていなかったこと、アメリカの圧力により外務省が受賞妨害工作を試みたこと、西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収される騒ぎもあり、各国で物議を醸したが世界で反響を呼び、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。カンヌでも高く評価され、こうした前評判に周囲はパルム・ドールを期待したが落選している。『原爆の子』主演の乙羽は映画制作の際に近代映画協会へ強引に移籍。以降、新藤と乙羽の関係は続き、私生活では新藤には本妻・美代とその子たちがいたものの、この頃より乙羽と愛人関係になる。映画監督としては、自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。しかし、芸術性と商業性との矛盾に悩み、失敗と試行錯誤を繰り返した。核兵器の作品も続き、1959年(昭和34年)には『第五福竜丸』を発表するも興行的には失敗に終わり、近代映画協会には多額の借金が残り解散の危機に陥った。この頃、日本映画に衰退の陰りが見え、大きな映画会社の経営が困難になり始めた。しかし、産業としての映画の衰退は「社会派映画」や「前衛芸術映画」の躍進のチャンスでもあり、大映画会社による映画館の独占支配体制が緩み、小さな独立系プロの製作する映画にも上映の機会を得ることができるようになった。1960年(昭和35年)、経営が立ちゆかなくなった近代映画協会は、その解散記念作品として長年暖めていた無言の映画詩『裸の島』の制作に入る。広島県三原市の無人島である宿弥島を舞台に、その南にある佐木島でロケを敢行。制作費はわずか500万円、夫婦役の殿山・乙羽含めスタッフ13人に佐久島の小学生も加わり、撮影期間1ヶ月で作り上げた。この映画が評価されたのは日本国内よりも海外で、1961年(昭和36年)にモスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、新藤は世界の映画作家として認められた。モスクワ国際映画祭の際には、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済した。このモスクワ国際映画祭ではその後の新藤作品の殆どを出品し、それらは当地で評価されており、新藤は「足を向けて寝れない」とこの映画祭を感謝している。この成功は、限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で自由な映画表現と制作ができる事を証明した。そして、製作手法(オール地方ロケ。出演者及びスタッフがロケ地で合宿体制を組む。スタッフ全員参加のミーティングを行い、本来の持ち場を越えて意見を交換する。等)は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画の製作に、多大な影響を与えた。また、「頼まれた仕事は断らない」を信条に、近代映画協会における自作の映画制作と平行し、大手映画会社の企画作品の脚本も多数手がけた。中には映画史に残る名作、話題作も含まれ、評価の高い脚本作品に、川島雄三監督『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督『けんかえれじい』(1966年)、中平康監督『混血児リカ』シリーズ(1970年代)、神山征二郎監督『ハチ公物語』(1987年)などがある。娯楽怪作としては、江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。テレビドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にもおよび、多くの賞を受賞した。監督としては純娯楽作品にはほとんど関心を示していないが、脚本家としてはそちらにも強く、コメディやミステリーなどにも高い技術を発揮するアルチザン的側面も持つ。他の巨匠といわれる監督兼脚本家たちの多くが自身の監督作品の脚本執筆をメインにしているのに対し、他の監督に脚本を提供し、なおかつ高い評価を受ける仕事が非常に多く、さらにプロデューサー、経営者、教育者、著述者としてなど、いくつもの顔をもって日本映画へ大きく貢献している。一方、新藤作品には社会性の強い作品、性のタブーに挑戦した作品がいくつか存在する。1964年(昭和39年)の『鬼婆』では、吉村実子、佐藤慶が全裸で走る場面を撮影。1970年(昭和45年)には連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』。1972年(昭和47年)にはフラワー・メグのヌードがほぼ全編で流れる『鉄輪(かなわ)』を発表した。同年、本妻・美代の申し出により正式に離婚。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚した。映画監督としては、津軽三味線の高橋竹山を題材とした『竹山ひとり旅』、広島原爆で死亡した桜隊を題材とした『さくら隊散る』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、樋口可南子が美しいヌードを披露した『北斎漫画』、性のタブーに挑戦した『濹東綺譚』などを発表する。1995年(平成7年)、老いをテーマとした『午後の遺言状』は、乙羽と杉村春子のためにシナリオを書いたもので、乙羽にとっては遺作、杉村にとっては最後の映画出演作品となった。1996年(平成8年)、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみがその年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。1997年(平成9年)、長年の映画製作に対して文化功労者に選出。2002年(平成14年)には文化勲章を受章した。2003年(平成15年)、モスクワ国際映画祭特別賞を受賞。2010年(平成22年)の時点で日本最高齢の現役映画監督であり、世界でもマノエル・ド・オリヴェイラに次ぐ位置にあったが、同年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表。2011年(平成23年)、「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画「一枚のハガキ」を完成させた」として、第59回菊池寛賞を受賞した。晩年は高齢のため移動に車いすが欠かせなくなっていたが、2012年(平成24年)に東京都内で行われた第54回ブルーリボン賞の授賞式では新人賞を受賞した当時7歳の芦田愛菜との「92歳差のツーショット」で沸かせた。4月22日には100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。5月29日午前9時24分、老衰のため東京都港区赤坂の自宅で亡くなった。享年101。没後、数々の作品を世に送り出した功績を讃え、多年に亘る映画界への貢献を評価して従三位が追贈された。


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常に人間を見つめ、社会派から前衛作まで幅広い作品を扱った巨匠・新藤兼人。100歳の天寿を全うするまで49本の監督作品を世に送り出し、「人間とは何か」「人はどう生きるか」を世に問い続けた。一方、脚本家としては徹底的に娯楽に徹し、『しとやかな獣』『けんかえれじい』『ハチ公物語』と映画史に残る傑作を量産した。生と死の本質を描き続けた新藤兼人の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。生前、京都府の妙心寺衡梅院に乙羽信子と共に入る墓を建立していた新藤だったが、次男が建てた鎌倉霊園に納骨された。孫は「本人の意向により、鎌倉霊園に納骨。乙羽さんとは、乙羽さんを散骨した『裸の島』の舞台となった三原沖の宿根島あたりの海で一緒になる予定です」とTwitterにコメントしていたが、どうしても複雑な事情を想像せざるを得なかった。乙羽は生前「いきなり子供達ができました」と、新藤の子供たちとの交流を喜んでいたが、その子供たちにこのような結末を迎えさせられるとは乙羽も思っていなかったであろう。新藤の眠る鎌倉霊園の墓には「空」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-11-01 19:17 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)