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竹脇無我(1944~2011)

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竹脇 無我(たけわき むが)

俳優
1944年(昭和19年)~2011年(平成23年)

1944年(昭和19年)、アナウンサー・竹脇昌作の三男として千葉県我孫子市に生まれる。最初は「宇宙」という名前を父からつけられる予定であったが、母の反対で「無我」という名前になった。青山学院中等部を経て青山学院高等部に入学したが、父の自殺、長兄・竹脇義果の半失明状態、次兄・竹脇真理が脳腫瘍のため18歳で早逝するなどしたために苦しくなっていた一家の経済状況を立て直すべく、16歳で映画界入り。1960年(昭和35年)、松竹映画『しかも彼等は行く』で俳優デビュー。青山学院大学法学部を卒業後の1965年(昭和40年)、『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たす。1966年(昭和41年)10月から5年間、TBS系で放送された、若者向け情報番組『ヤング720』では司会を担当した。1970年(昭和45年)、テレビドラマ『姿三四郎』で一躍スターとなり、クールな二枚目のイメージを確立させた。また、『大岡越前』、『だいこんの花』、木下恵介アワー『二人の世界』など、時代劇やホームドラマなどでも幅広く活躍。美声であったことから女性ファンが非常に多く、知的で優しいイメージが定着して「理想の夫ナンバーワン」とも呼ばれた。1972年(昭和47年)には、映画『人生劇場』に高橋英樹、田宮二郎、渡哲也を抑えて主演を務めた。その後も、『岸辺のアルバム』、『おやじのヒゲ』といった作品に出演する一方、1970年代後半から1980年代にかけては、十朱幸代、土田早苗を始めとする共演女優との不倫スキャンダルが週刊誌にしばしば報道された。特に1985年(昭和60年)の十朱幸代との不倫が発覚した際は、自宅を出て別居生活を続けるなど話題を呼んだ。役者として円熟味が増してきた矢先の1993年(平成5年)、友人の松山が食道癌で死去したショックと、二枚目を演じるストレスなどにより、自殺の衝動を酒で抑え始め、心療内科での診察を受けてうつ病と診断された。抗うつ剤と眠剤でうつ度が軽くなり、自身も周囲も病状をやや甘く見ていたため、半年の入院後に復帰することをマネージャーと病院に伝えて1度は退院したものの、再び落ち込みが激しくなり、自殺の衝動を酒で抑える事態となった。また、糖尿病と高血圧症も併発し、2000年(平成12年)に再度入院。その入院が元となり、娘からのサポートや森繁久彌・加藤剛からの手紙が心の励みとなり、うつ病の治療に専念する。2003年(平成15年)、8年間の闘病生活の末に復帰。鬱病との闘いをつづった初著書『凄絶な生還 うつ病になってよかった』を出版したのを機にカムバックし、食生活も改善して闘病体験を語れるまでになったが、2009年(平成21年)に父と慕っていた森繁が亡くなったことによる精神的ショックで、以後再び落ち込みが激しくなる。食生活も改善を続ける一方で、一度は止めた飲酒と喫煙を再び続けるようになり、うつ病と糖尿病時に併発していた高血圧症の症状も再度現れた。2011年(平成23年)8月21日、自宅内で意識不明の状態で発見され、東京都大田区の東邦大学医療センター大森病院に搬送。脳幹出血の症状があり、集中治療室にて治療が続けられていたが、午後2時5分に小脳出血のため東邦大学医療センター大森病院にて死去。享年67。


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クールな二枚目として数多くのテレビドラマで活躍した竹脇無我。特に『だいこんの花』『おやじのヒゲ』といった公私ともに親しい森繁久彌の主演作にほぼ出演し、森繁の秘蔵っ子としても知られた。後年は鬱病との闘いを余儀なくされ、思うような俳優活動ができなかったのは大変不憫であった。端正な顔立ちと、甘い低音ボイスで世の女性を魅了し続けた竹脇無我の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。無我は三男であったが、父と同じ墓地に納骨された。墓には「甦 竹脇」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-10-11 17:30 | 俳優・女優 | Comments(0)