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竹脇昌作(1910~1959)

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竹脇 昌作(たけわき しょうさく)

アナウンサー
1910年(明治43年)~1959年(昭和34年)

1910年(明治43年)、富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)に生まれる。新潟県出身とされる説もあり、もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。子供のころから美声として評判で、1934年(昭和9年)にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格。青山学院大学英文科を卒業後、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後に地方勤務を拒否したことで養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。」として制止した。退社後はニュース映画解説者となり、日英米のニュース映画を担当。特にパラマウント・ニュースは第1号から第411号までほとんどを手がけ、ナレーターの先駆者ともいえる人物となった。戦時中はプロパガンダ・レコードのナレーターも務めた。戦後はラジオ界に戻り、1958年(昭和32年)4月からはじまった生放送のラジオ番組『東京ダイヤル』(ラジオ東京、現在のTBSラジオ)ではディスクジョッキーを担当。独特のサビ声と軽快な口調で人気を集め、「竹脇節」と呼ばれたその語り口は、マダムキラーボイスともてはやされた。しかし、仕事では完璧主義者で責任感が強く、その上多忙の毎日と生放送という重圧が彼の精神を蝕み、年をとってからの自分の仕事への不安や家族の将来などで神経衰弱的な状態に陥り、1959年(昭和34年)3月の皇太子ご成婚に関する放送回を最後に東京ダイヤルを降板。精神科医・斎藤茂太の病院へ入院し、ノイローゼおよび不眠症と高血圧症の治療を始めたが、実際は重度のうつ病であった。治療中も『東京ダイヤル』が始まる時間になると自然と血圧があがったといわれていたが、回復が順調に進み、一時退院を許されると自宅に戻り、『東京ダイヤル』のスタッフに対しても復帰への意欲を口にしたほどであった。しかし、『東京ダイヤル』は後任の芥川隆行が好評であったために復帰がかなわず、ラジオ東京との契約も9月末で切れた。さらに、追い討ちをかけるかのごとく、自宅の土地と電話が差し押さえられた。ほとんど仕事をしてなかったために税金の滞納を余儀なくされたのが理由であるが、それらが原因で彼の苦悩が極限まで達したという。結果、同年11月9日に自宅の物置で縊死。享年49。その日は長女の誕生日であり、首を吊ったロープは子供たちが遊んでいた縄跳びの縄であった。竹脇の死は「マスコミ病」「売れすぎた悲哀」「秒針に追い回されて」「人気の毒にもあたる」「電波に殺された」などと言われた。


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「竹脇節」と称された個性的な語り口で知られる竹脇昌作。戦時中は日英米のニュース映画を担当し、特に「大本営発表!」の言葉は今も歴史番組等で繰り返し流されている。戦後は『東京ダイヤル』で絶大な人気を博し、そのソフトな語り口は「マダムキラーボイス」と呼ばれた。しかし、その裏では完璧主義な性格が祟って鬱病を発症。果ては仕事を失い、自殺という悲しい末路を迎えてしまった。竹脇昌作の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。墓には「甦 竹脇」とあり、背面に墓誌が刻む。
by oku-taka | 2020-10-11 15:09 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)