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石立鉄男(1942~2007)

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石立 鉄男(いしだて てつお)

俳優
1942年(昭和17年)~2007年(平成19年)

1942年(昭和17年)、神奈川県横須賀市に生まれる。男兄弟5人という男性中心の家庭で育ち、父親からは「人に迷惑をかけるな。何をやってもいいがその道の大物になれ。泥棒になるなら大泥棒になれ」と幼いときから教えられていた。また、敗戦後米軍基地の街と化した横須賀で青年時代までを過ごす。この時、米兵にもらったチョコレートやチューインガムの美味しさを知るが、米兵相手に身売りする近所の女性を目の当たりにした経験が子供心にも傷となり、その後の自分の女性関係にも限りなく影響を与えたと語っている。中学、高校ではバスケットボールに打ち込むごく平凡なスポーツ少年であったが、男ばかりの兄弟で学校も男子校であったため何かにつけて反抗し、進路相談の担任とも大喧嘩するなど反骨精神が強かった。あるとき、役者志望の友人が俳優座養成所を受けると聞き、興味本位で受験したところ、自分だけが合格。俳優になるつもりは全くなかったが、自分と同じく合格発表を見に来ていた佐藤オリエを見て、「こんなきれいな子が入るならば」と入所を決めた。1961年(昭和36年)、俳優座研究生第13期生として入所。同期生に笹岡勝治、細川俊之、横内正、佐藤友美、結城美栄子、服部まり子、佐藤オリエ、真屋順子、夏圭子、勝部演之、加藤剛らがいる。中でも笹岡、細川、横内の3名は石立にとって当時を過ごした同じ貧乏仲間として特別な存在の同級生であった。入所するまで俳優座創設者の千田是也と小沢栄太郎のことを知らず、教員から「ここに何しにきたんだ?」と言われて奮起。本格的に演劇を学ぶため膨大な本を読む一方、笹岡勝治、細川俊之と3人で麻布にある民家の二階四畳半を間借りし、共同生活を送る。実家の仕送りがあったため石立が家賃を負担していたが、それだけでは足りないので六本木の地下鉄工事のアルバイトをしながら学費を稼いでいた。しかし、60年安保闘争があり、左翼思想の新劇関係者、俳優座も千田是也を筆頭に反対デモに参加。養成所にも余波が及び、石立も国会デモに参加したが「何かが違う。高倉健や菅原文太みたいになりたかったはずなのに」と思っていた。1963年(昭和38年)、テレビドラマ『愛の系譜』でデビュー。同年、ドラマ『まごころ』で初主演を果たし、続くドラマ『夏』でのちの交際・結婚相手となる女優の吉村実子と初共演する。養成所時代はずっと演技をすることが恥ずかしくて嫌だったが、同期の佐藤友美が卒業公演の練習で涙を流して一生懸命取り組む姿をみて、芝居をもう一度一から勉強しようと決意。1964年(昭和39年)3月、俳優座養成所卒業公演『お気に召すまま』(W・シェイクスピア作)の演技で注目され、文学座研究生となる。同年、NHKドラマ『ふりむくなマリー』で吉村実子と再び共演し、脚光を浴びる。1965年、文学座公演『花咲くチェリー』で北村和夫演じる主人公の息子役を演じ、作家・水上勉の目にとまる。翌年、水上が文学座のために書き下ろした戯曲『山襞(やまひだ)』で大役を果たし、座員に昇格。「ハムレットをやれる男」と演劇界における最高の誉め言葉で呼ばれた。1968年(昭和43年)、吉村実子と結婚。28歳のときに長男、30歳のときに次男が誕生するも、まもなく家出したきり帰らず、離婚するまで別居状態であった。1969年(昭和44年)、ヨーロッパに長期旅行のため文学座を一時休座。ドラマ撮影のため一時帰国するも、数か月後に再び渡航し、単身アメリカ・ニューヨークで4カ月を過ごす。このときオフ・ブロードウェイで水とパンと卵だけで暮らしている役者の卵たちから言われた「まずはスターになれ。有名になれば自分のやりたい芝居ができる」の言葉に触発され、帰国後した1970年(昭和45年)9月、文学座に退団届を出す。退団後まもない頃は、新劇出身の役者として自由な演劇スタイルを試み、山口崇、左時枝、小山田宗徳らと「ゲバラ財団」(演劇グループ)を結成。毎週日曜の夜に渋谷ジァン・ジァンで入場無料のアングラ演劇をおこなっていた。また、活動の場がテレビに移り、教師と生徒の禁断の恋をコミカルに描いたドラマ『おくさまは18歳』が出世作となる。このドラマの大ヒットを受け、次のドラマ『おひかえあそばせ』(日本テレビ)の主演が決定。人気は急上昇し、当時18~34歳女性の人気調査(日テレ・アドリサーチ調査)では石坂浩二に次ぐ2位と報じられた。以後、『気になる嫁さん』、『パパと呼ばないで』、『雑居時代』、『水もれ甲介』、『気まぐれ天使』、『気まぐれ本格派』と通算8年にわたり、日本テレビとユニオン映画製作、松木ひろし脚本によるホーム・コメディドラマの主演を続け、お茶の間の人気者となる。また、ドラマの放送時間がどれも毎週水曜日の夜8時であったため、マスコミからは「水曜夜8時の男」と呼ばれた。早口でまくしたてるセリフ回しや独特の甲高い声、アフロヘアーは本人の役作りによるものであり、個性派俳優としての地位を確立。1980年代には大映テレビ製作のドラマの常連としても活躍し、代表作に『噂の刑事トミーとマツ』、『スチュワーデス物語』、『少女に何が起ったか』などがある。特に『少女に何が起ったか』では、深夜0時にピアノを練習する主人公のもとを訪れ、「薄汚ねえシンデレラ!」と脅す憎まれ役の刑事を演じ、このセリフも流行した。また、エースコック「わかめラーメン」のCMでは「お前はどこのわかめじゃ〜」のセリフでお茶の間に親しまれた。しかし、40代後半から主演作品がほぼなくなり、サスペンス劇場やドラマスペシャルの脇役が中心となっていく。45歳から15年間、友人で俳優の勝呂誉とペットビジネスを兵庫県西宮市で展開。4階建てのビルを構え、1階はペットショップ、2階はペットサロン、3階はペットホテル、石立は4階を自宅にし、宣伝担当として店先に立ったり、アメリカに首輪やリードの仕入れにも出かけた。店舗を尼崎、新大阪等4つに広げたが、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災による被害で本店以外を閉店。経営から退いた。56歳のときに別居状態にあった吉村実子と正式に離婚。翌年、都内から静岡県熱海市に移住。友人がもつ別荘を住まいとし、仕事のときだけ上京する暮らしを始める。市内では麻雀店「優」の経営もしていたとされる。2007年(平成19年)6月1日、就寝中に急性動脈瘤破裂を発症し、静岡県熱海市の自宅で死去。享年64。秋に出演が決まっていた舞台を楽しみにしており、亡くなる4日前には打合せのため上京していた。


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1970年代に一連のコメディードラマで一世を風靡した石立鉄男。約8年にわたって脚本家の松木ひろしによるホームコメディドラマの主演を務め、アフロヘア―に甲高い声とクセの強い独特な存在感でお茶の間の人気者となった。ドジな三枚目を演じる反面、私生活では怒りっぽく、ギャンブルにのめり込んで仕事をすっぽかすのはザラであったという伝説を持ち、多くの人が「怖い」と証言するほど、芸能界では恐れられた存在であった。そのためか、平成に入ると仕事が極端に減少し、かつて多数のヒット作を世に送り出した役者とは思えないほどの脇役で2時間サスペンスやスペシャルドラマに出演していたのは何とも悲しかった。しかし、バラエティ番組でブレイク前の時期の杉田かおるが「(石立と)セットが条件で」と番組出演を頼むと「俺が承諾すれば、お前(杉田)は出られるんだな?」と言って出演したり、岡崎友紀が歌を披露した番組にゲストで登場して当時の思い出話を披露するなど、かつて共演した俳優仲間への義理堅い一面があったことは特筆しておきたい。個性的な演技でテレビドラマの一時代を築いた石立鉄男の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。洋形の墓には「石立家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「爽照院朗峰鉄心居士」。

Commented by 元朗 at 2021-04-03 19:32 x
大変興味深く拝見しました。
1960年代の「若者たち」ではナイーブな青年を演じており、その後の8時台の松木ひろしドラマの主役とは別人のようです。
松木ドラマは一部DVDも持っておりますが、ひとのことに一生懸命になる性格は、きっと石立氏ご本人のままと感じています。決まり文句の「冗談じゃないよ!」も懐かしい。
昭和の「アイドル」として、忘れがたい役者さんです。
by oku-taka | 2020-10-11 11:49 | 俳優・女優 | Comments(1)