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後藤田正晴(1914~2005)

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後藤田 正晴(ごとうだ まさはる)

政治家
1914年(大正3年)~2005年(平成17年)

1914年(大正3年)、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に生まれる。父は政治好きで、自由党の壮士として酒造業で得た資金を政治活動や地元の教育の普及に使い、徳島県議会議員や麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。しかし、1922年(大正11年)5月11日に肝臓病で父を亡くす。1924年(大正13年)8月26日には母も他界。1926年(大正15年)4月に姉の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。井上家は後藤田を長男格で扱い、長兄も遺産を処分しながら弟たちの学費を工面してくれたため、不自由なく暮らすことが出来たが、早くに両親を亡くした経験はその後の人格形成に大きな影響を与える。その後、東山小学校、富岡中学校、旧制水戸高等学校(乙類)を経て、1935年(昭和10年)に東京帝国大学法学部法律学へ入学。1学期修了後には政治学科へ転科した。在学中、「支那にゃ、四億の民が待つ」という当時の日本を覆っていた熱気と第一線で国民と直接接する仕事をやりたい気持ちから、南満州鉄道(満鉄)に入社して中国大陸に渡るか高等文官試験(高文試験)を受けて官吏になることが希望であった。しかし、1937年(昭和12年)の満鉄入社試験では東大卒者と京大卒者それぞれに設けられた入社試験日を取り違えてしまい、頼み込んで一応面接をしてもらったが不合格。難関の高文試験も一度目の受験では失敗したが、1938年(昭和13年)10月の高文試験に8番の席次で合格となった。1939年(昭和14年)3月、東京帝大法学部政治学科を卒業した。4月10日、当時一流の官庁とされていた内務省に入省。同期には同郷の海原治と平井学がおり、将来を嘱望されて「徳島三羽ガラス」と呼ばれた。内務省の振出し配属は土木局道路課兼港湾課見習いであり、このときの直属の課長は灘尾弘吉、後藤田の教育役となったのは内務事務官の細田徳寿であった。1940年(昭和15年)1月31日、細田の招きで富山県警察部労政課長に出向。労務報国会の組織や労働災害の認定などを担当した。3月、陸軍に徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に入営。もともと短期現役制度がある海軍を志願していたが不合格とされており、陸軍では高等官への例外扱いがないため二等兵から始めることとなった。4月8日に台湾歩兵第二連隊に配属。甲種幹部候補生に合格したため陸軍経理学校で補給について学ぶ。経理部将校候補生として陸軍軍曹を経て、1941年(昭和16年)10月1日に陸軍主計少尉に任官。開戦後は台湾軍司令部と台湾総督府の連絡将校となり、1943年(昭和18年)9月10日には中尉に昇進。高砂義勇隊や台湾特設労務報国隊の編成に携わった。9月、主計中尉に昇進。1945年(昭和20年)8月の終戦は台北で迎え、同月20日にポツダム進級で主計大尉となる。間もなく台湾に進駐してきた陳儀中将が率いる中国国民政府軍によって武装解除され、1946年(昭和21年)3月10日に召集解除。4月まで捕虜生活を送った。復員後、故郷での静養を経て、内務省に復職。5月7日付で神奈川県経済部商政課長となる。ここでは衣料品や炭などの物資配給を担当した。10月24日に本省へ戻され、地方局職員課の事務官となる。また、高橋幹夫の後任として内務省職員組合委員長になる。後藤田は地方公務員法の制定や労働組合との折衝、公職追放令に携わった。しかし、自分は戦争に協力していないとして、別の者に責任を押し付けて逃れようとする追放解除の陳情にうんざりし、公職追放業務の管轄が内務省を離れて内閣の公職適否審査委員会に移管される際に同期の岡田典一に押し付けて内務省に留まった。後藤田は、立法が苦手であったことや既に警視庁で多忙を極めていた海原治からの誘いもあって、「常識さえあればできる」警察への異動希望を岡崎英城と丹羽喬四郎に申し出、警視総監である門叶宗雄の計らいにより、1947年(昭和22年)8月12日に警視庁保安部経済第二課長となり、物資の統制を担当した。以後、警察畑を歩み、同年12月の内務省廃止後は警察庁に所属する警察官僚となった。1948年(昭和23年)3月6日に警視庁警務部警務課長となり、警察人事の刷新に注力。1949年(昭和24年)3月7日、東京警察管区本部刑事部長に就任。1950年(昭和25年)8月30日、警察予備隊本部警務局に登用された石井榮三の引き抜きによって同警備課長兼調査課長となり、警察予備隊の創設や自衛隊の前身となる保安隊の計画策定に従事。1952年(昭和27年)8月20日、国家地方警察本部警備部警邏交通課長に就任。在職中に二重橋事件が発生し、国会で追及を受けている[47][48]。1955年7月1日に警察庁長官官房会計課長となり、パトカーの整備や通信・鑑識能力の強化等、警察の科学化を推進した。また、人事課長であった新井裕とともに自治庁に働きかけて定員数を増やして警察力を強化し、「革命の前夜」の状況であった当時の社会情勢に備えている。1959年(昭和34年)3月6日、自治庁税務局長の小林與三次らの引きで、自治庁長官官房長に就任。10月13日に金丸三郎の後任として同庁税務局長となり、地方自治体の財源について大蔵省と折衝を行うとともに、地方自治と税制のキャリアを積む。このとき、固定資産税の課税標準を収益還元価格から売買価格に改めている。また、料飲税の導入にあたっては自民党三役(前尾繁三郎幹事長・田中角栄政調会長・赤城宗徳総務会長)が出してきた修正案を拒絶し、原案を押し通した。1962年(昭和37年)5月8日、自治事務次官に就いた小林の慰留を振り切り、警察庁に復帰して長官官房長となる。1963年(昭和38年)8月2日には警備局長となり、ライシャワー事件の指揮をとった。1965年(昭和40年)3月12日に警務局長、5月19日には警察庁次長となり、1969年(昭和44年)8月12日警察庁長官に就任。長官時代は、極左暴力集団によるテロや暴動が相次いでおり、よど号ハイジャック事件・瀬戸内シージャック事件・三島事件・三里塚闘争(成田空港予定地の代執行)・あさま山荘事件・山岳ベース事件・西山事件・テルアビブ空港乱射事件など、頻発する重大事件への対処に追われた。1971年(昭和46年)に発生した土田・日石・ピース缶爆弾事件の標的の1人となり、郵便爆弾が郵便局で差し出された直後に暴発したことで難を逃れたが、郵便局員1人が全治三週間の火傷を負っている。1972年(昭和47年)6月24日、警察庁長官を辞任。同年7月、自由民主党総裁選挙に勝利した田中角栄に抜擢され、第1次田中角栄内閣の内閣官房副長官(事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。国土庁の設立が構想された際にその初代長官となるよう田中から打診されたが、後藤田は民間人閣僚となることを潔しとせず断っている。後藤田は山下元利からの誘いもあって同年末に行われた第33回衆議院議員総選挙への出馬を希望していたが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、また選挙への準備不足も指摘されたことから断念した。1973年(昭和48年)4月、田中が小選挙区制の導入をぶち上げ、同年5月12日に後藤田は区割り委員会の事務局長に据えられる。しかし、根回しなく公表されたいわゆる「カクマンダー」構想は野党はおろか党内からも猛反発を招き、撤回された。11月25日、官房副長官を辞職し、郷里の徳島県から参議院選挙に出馬するための準備を始める。しかし、徳島県は三木派を率いる三木武夫(当時副総理)のお膝元であり、しかも1人区である徳島県選挙区では三木派の城代家老と言われた久次米健太郎が現職であったことから、自民党公認を巡って党内が紛糾する。結局、徳島県連の投票により後藤田が公認候補とされたが、三木派の猛反発を招いた。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は阿波戦争(三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった。当初は財界と党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていたが、農協などとの強い関係を持つ久次米陣営が猛烈に巻き返し、1974年(昭和49年)7月7日の第10回参議院議員通常選挙の結果は、久次米19万6210票に対し後藤田15万3388票で及ばず、敗北した。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが徳島県警察によって選挙違反で検挙されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに、私財を売り払って逮捕者に弁護士を手配した。さらに、強力な後ろ盾であった田中角栄も田中金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。1976年(昭和56年)、第34回衆議院議員総選挙に徳島県全県区(当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。第4次防衛力整備計画策定の際、田中首相・後藤田官房副長官・相沢英之大蔵省主計局長の三者が防衛庁不在で次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化を白紙にして輸入に決定したと久保卓也防衛次官が発言し、対立候補や警察官僚時代の後藤田に取り締まりを受けていた共産党は、これを利用して選挙区で後藤田の「ロッキード疑惑」を喧伝するなど、ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンも受けたが、落選以来「徹底して歩け」との田中の指示どおりに地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。当選後は自民党田中派に所属。選挙の勉強も兼ねて総務局次長として東京都議会選挙の指導を任された。1978年(昭和53年)、初めての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入された自由民主党総裁選挙において、田中派は現職の福田赳夫に挑む大平正芳を支持。西村英一の指示を受け、後藤田は東京都に地盤を持たない大平派に代わって大票田である東京地区での大平票を伸ばす任務を負った。後藤田は佐々木義武や浜野清吾と協力して、区議会議員を動員してリストアップした党員に対して徹底した戸別訪問作戦と電話作戦を展開した。当初東京地区は現職の福田が圧倒的有利で二位が都議会議員とのつながりを持っている中曽根康弘が二位と言われていたが、結果は大平が4割程度を抑えて二位に躍進した。後藤田の地元徳島地区でも三木派が推す河本敏夫を抑えて大平が一位であった。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。1979年(昭和54年)11月、第2次大平内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官として初入閣。当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年(昭和56年)11月、鈴木善幸改造内閣で選挙制度調査会会長に就任。1982年(昭和57年)11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第1次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった。中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした。こうして、官房長官となった後藤田は、レフチェンコ事件や中川一郎の自殺事件、ソ連軍による大韓航空機撃墜事件、三原山噴火による住民の全島避難の際に優れた危機管理能力を発揮。中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、1983年(昭和58年)12月に行政管理庁長官、1984年(昭和59年)7月に新設された総務庁長官として、3公社民営化などを推進した。第2次中曽根第2次改造内閣・第3次中曽根内閣では内閣官房長官に再任され、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。こうした後藤田の重用は、自民党内、出身母体の田中派の議員の激しいねたみを招き、「向日葵」というあだ名を付けられることもあった。田中派の膨張策の中で後藤田ら外様の議員が幅を利かせていることや党内最大派閥であるにもかかわらず三木以降総裁を輩出できていないことへの田中直系の議員らからの不満の高まりを背景に、小沢一郎、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登と金丸信を担いで、1984年(昭和59年)に創政会を旗揚げして事実上の分派を形成した。後藤田自身は、田中派が竹下派と二階堂進グループに分かれた際にどちらにも与せず、無派閥となった。その後、イラン・イラク戦争終結に当たり、海上保安庁の巡視船または海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。1987年(昭和62年)の東芝機械ココム違反事件では、通商産業省は半ば黙認し、公訴時効になりかけた外為法違反を、外事課・生活安全課へ圧力をかけて、事件とさせた。日米の摩擦が激化、中曽根首相が訪米した時期と併せての政治的判断であった。その後の竹下内閣成立後は、暫く表舞台から退くが、リクルート事件の発覚により竹下首相が退陣を表明し、竹下同様の疑惑を抱えた派閥領袖が軒並み逼塞を余儀なくされる中、リクルート事件に無縁だった伊東正義、田村元、福田赳夫、河本敏夫、坂田道太らの長老と共に後継総裁候補に名前が挙がったが、後藤田は「私は総理にならないほうがいい。第一に警察出身者。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。私は総大将には向かないのだよ」と述べ、総裁就任を固辞した。竹下は外務大臣の宇野宗佑に白羽の矢を立てたが、リクルート事件や消費税導入、宇野首相の女性問題もあって短命に終わった。宇野の後を受けた海部俊樹内閣では、伊東正義を本部長に擁する自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、伊東や「ミスター政治改革」の異名をとる羽田孜らと共に小選挙区制導入に執念を燃やした。この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが、武村正義や北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、自民党下野の際に後継首班候補として後藤田の名があがる伏線となった。1990年(平成3年)に湾岸戦争が勃発。アメリカからの自衛隊の多国籍軍参加の要請ないし圧力がかけられたときには一貫して反対姿勢を貫いた。1992年(平成4年)12月、宮澤改造内閣で法務大臣に就任。派閥に属していないにもかかわらず一本釣りにあった格好で、第3次中曽根内閣で内閣官房長官を務めて以来となる久々の入閣であった。当初は行政改革の担当としての入閣の打診であったが、中曽根内閣の経験からこれを断り、既に高齢であることから後藤田にとって負荷が「軽い」ポストを希望したことにより、官僚でのキャリアで習得した法務の知識が活かせる法務大臣を充てがわれたという経緯であった。しかし、1993年(平成5年)4月に副総理兼外務大臣の渡辺美智雄が病気のため辞任すると、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。法相在任中は、死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「法治国家として望ましくない」との主旨の発言をし、同年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対する死刑執行命令を発令した。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった連合赤軍事件の永田洋子と坂口弘の死刑が確定した時期であったことも注目された。ロッキード事件においては田中の公判検事であった吉永祐介を検事総長に起用するという人事を承認。また、カミソリといわれた官僚時代と異なり、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決。羽田・小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また、同じく政治改革を推進してきた武村正義・鳩山由紀夫らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、新党さきがけを結党した。7月18日の解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党によって過半数を割りこんでいた自民党は議席を伸ばせず、55年体制が終焉した。選挙責任を問われた宮澤の後任の自民党総裁として後藤田を推す声が再び上がったが、このころ心臓発作を起こして一時入院していたこともあって固辞し、宮澤と相談のうえで河野洋平を指名することとした。その結果、河野が総裁に就任し、後藤田はその指南役を務めた。1996年(平成8年)、最初の小選挙区制の選挙となった総選挙には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。また、河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。一方、イラク戦争における自衛隊派遣に反対し、小泉純一郎内閣に対して「過度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した。小泉政権への牽制役として期待をかけていた野中広務が政界引退を表明したときには、自ら出向いて「日本にとって今が一番重要なときなんだ。恥をかかすことになるけれども『後藤田が止めた』と言って、あと三年頑張ってくれ」と頭を下げた。引退後は、しばしば右派勢力から「ハト派」「親中派」と目され、身辺での威圧や嫌がらせを受けていた。後藤田は病弱な妻を気遣っていたが、 夫人はむしろ「もう遠慮することも失うこともないはず。言いたいことをどんどん言って下さい」などと勧めていた。晩年は政界のご意見番的な立場でTBS『時事放談』などに出演していたが、2005年(平成17年)9月に体調を崩して入院。9月19日午後8時53分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肺炎のため死去。享年91。


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抜群の情報収集力と的確な判断力から「カミソリ」の異名で知られた後藤田正晴。警察官僚として、学園闘争、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件と時代を揺るがした大事件を担当し、政治家としては「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣の名補佐官として辣腕を振るい、当時の政界において強大な影響力を放った。ベッコウ眼鏡で淡々と語るその姿に派手さこそなかったが、自身の信念だけは決して曲げず、時に総理大臣とも対峙しながら、確固たる意見を貫いた。戦後政治を陰から支え続けた後藤田正晴の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。洋形の墓には「後藤田家」とあり、両側にそれぞれ形の異なる墓誌が建つ。戒名は「憲徳院殿東山誠通大居士」。

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Commented at 2023-10-08 22:00
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by oku-taka | 2020-09-13 22:36 | 政治家 | Comments(2)