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丸谷才一(1925~2012)

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丸谷 才一(まるや さいいち)

作家・評論家
1925年(大正14年)~2012年(平成24年)

1925年(大正14年)、山形県鶴岡市馬場町に生まれる。鶴岡市立朝暘第一尋常小学校を経て、1938年(昭和13年)に旧制鶴岡中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)に入学。在学中に勤労動員を体験して軍への嫌悪感を募らせる。当時の優等生は陸軍士官学校か海軍兵学校に進むことを期待されていたにも関わらず、校長の勧めを無視して、1943年(昭和18年)中学校を卒業と同時に上京。東京の城北予備校に1年間通学する。予備校時代に作家の安岡章太郎と知り合う。1945年(昭和20年)3月、学徒動員によって山形の歩兵第32連隊に入営。8月15日に青森で終戦を迎え、9月に復学する。1947年(昭和22年)3月、新潟高等学校 (旧制)を卒業。4月、東京大学文学部英文科に入学。中野好夫、平井正穂のもとで主に現代イギリス文学を研究。ジェイムズ・ジョイスを知り大きな影響を受ける。1950年(昭和25年)3月に卒業し、4月に同大学院修士課程に進む。修士課程時代には桐朋学園で英語教師としても勤務しており、当時の教え子には小澤征爾や高橋悠治がいた。また、この頃になると洋書の輸入が解禁になり、イギリスの『ニュー・ステイツマン』『サンデー・タイムズ』『オブザーヴァー』などを読むようになって書評欄の面白さに気づき、イギリスの書評が文学になっていることの衝撃を受ける。1951年(昭和26年)1月、東京都立北園高等学校の講師に就き、3年間務める。1952年(昭和27年)1月、篠田一士、菅野昭正、川村二郎らとともに季刊同人雑誌『秩序』を創刊。その第1号に短編小説「ゆがんだ太陽」を掲載した。また、同誌2号から7号に初の長編小説『エホバの顔を避けて』を連載。旧約聖書の「ヨナ書」を基本的な枠組みにしたこの作品は、ジョイス『ユリシーズ』やトーマス・マン『ヨゼフとその兄弟』のような、20世紀文学の特徴である「神話的方法」を採用したもので、エホバとの関係を通して、圧倒的な権威によって抑圧され、そこから逃れようとする魂の状況を描いた。4月、杉並区にある高千穂高等学校の講師となる。5月、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を『不良少年』の邦題で翻訳し、筑摩書房より刊行。以後、英文学の翻訳を行う。1953年(昭和28年)9月、國學院大學の専任講師となる。1954年(昭和29年)4月には助教授に昇進。また、桐朋学園の非常勤講師となる。10月、東大英文科の同級生で演劇批評家の根村絢子と結婚。戸籍上は根村姓を継いだ。1960年(昭和35年)10月、『エホバの顔を避けて』を刊行。同作で文壇に認められる。1964年(昭和39年)、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を永川玲二、高松雄一と共訳・刊行。1965年(昭和40年)3月、國學院大學を退職。4月より東京大学英文科非常勤講師として2年間「ジェイムス・ジョイス」を講義した。また、7月5日付から毎月2回『読売新聞』に「貝殻一平」の名前で「大衆文芸時評」を連載する。1966年(昭和41年)7月、思想的主題を『エホバの顔を避けて』の手法で描いた長編小説第2作『笹まくら』を刊行。「十五年戦争中を徴兵忌避者としてすごした男が、戦争が終わって後もその過去が彼にさまざまな影響を与えつづける」という精神の様相を描いたもので、戦争の気持ち悪い実感を描き、独自の世界を確立する。1967年(昭和42年)には同作で河出文化賞を受賞。1968年(昭和43年)3月、『年の残り』を発表。7月には同作品で第59回芥川賞を受賞した。1972年(昭和47年)4月、長編第3作『たった一人の反乱』を刊行。大いに話題となり、12月には同作品で第8回谷崎潤一郎賞を受賞する。以後、ほぼ10年に1作のペースで長編小説を刊行。ジェイムズ・ジョイスやマルセル・プルーストなどのモダニズム文学の影響を受け、英国風の風俗性とユーモア、知的な味わいを重視し、近代日本の従来の私小説的な文学風土に対する強い批評意識のもとに、小説を執筆する。1973年(昭和48年)4月、評論『後鳥羽院』を刊行し、翌年に同作で読売文学賞を受賞。同作をきっかけに、これ以降の著作は歴史的仮名遣いを使用するようになる。1975年、「四畳半襖の下張事件」において、被告人野坂昭如の特別弁護人として出廷。1982年(昭和57年)8月、長編第4作『裏声で歌へ君が代』を刊行。1984年(昭和59年)4月から10月まで、東京大学文学部講師をつとめる。1985年(昭和60年)、評論『忠臣蔵とは何か』を発表。忠臣蔵における御霊信仰とカーニバル性について、国文学者・諏訪春雄と論争を行い、同作品で野間文芸賞を受賞する。1988年(昭和63年)、『樹影譚』で川端康成文学賞を受賞。1990年(平成2年)、国語学者・大野晋との対談 『光る源氏の物語』で芸術選奨を受賞。1991年(平成4年)、種田山頭火を扱った『横しぐれ』の英訳(デニス・キーン訳、『RAIN IN THE WIND』)がイギリスのインディペンデント外国小説賞特別賞に輝く。1993年(平成5年)1月、長編第5作『女ざかり』を刊行。同作はベストセラーとなり、翌年には吉永小百合主演で映画化された。1998年(平成10年)、日本芸術院会員に選出。1999年(平成11年)、評論『新々百人一首』を刊行し、翌年に大佛次郎賞を受賞。2003年(平成15年)11月、長編第6作『輝く日の宮』で第31回泉鏡花文学賞を受賞。2004年(平成16年)1月、朝日賞を受賞。2006年(平成18年)10月、文化功労者に選出。同年、二度目の食道癌を発症。2010年(平成22年)初頭、胆管癌を発症。2月、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』の翻訳で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。また、胆嚢癌の手術を受けた。退院後、最後の長編小説となった『持ち重りのする薔薇の花』を執筆。2011年(平成23年)、文化勲章を受章。11月3日の皇居での授与の際、5人の受章者のうち最年長だったため、最初に勲章を受け取り「お礼言上」する役を勤めたが、その際に用意された文面を自分流に改稿して読み上げた。2012年(平成24年)1月、心臓にステントを挿入する手術を受ける。4月に心臓を再手術。その前後の精密検査で腎盂癌が発覚し、余命宣告を受ける。10月7日、体調を崩して入院。同月13日午前7時25分、心不全のため東京都渋谷区の病院で死去。享年87。


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日本文学の暗い私小説的な風土に反発し、軽快で知的な作品の執筆を目指した丸谷才一。自らの理想とする文学を目指し、翻訳・評論・小説と幅広く活躍。独自の歴史的仮名遣いでの創作にこだわり続け、座談や講演の多さから、開高健・井上光晴とともに「文壇三大音声」の一人を自負し、歌仙連句を文壇に復興させるべく、安東次男や大岡信と始めた「歌仙の会」は40年以上も活動するなど、文学界に大きな存在感を示した。丸谷才一の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。墓には俳号の「玩亭墓」とあり、背面に歌人・岡野弘彦による略歴と「ぱさぱさと 股間につかふ 扇かな」(大岡信『新 折々の歌』所収)の句が刻まれている。
by oku-taka | 2020-09-12 23:19 | 文学者 | Comments(0)