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萬屋錦之介(1932~1997)

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萬屋 錦之介(よろずや きんのすけ)

俳優
1932年(昭和7年)~1997年(平成9年)

1932年(昭和7年)、三代目中村時蔵の四男として東京府東京市麻布区に生まれる。本名は、小川 錦一(おがわ きんいち)。満4歳になる直前の1936年(昭和11年)11月、『厳島招桧扇』の清盛の童の役(歌舞伎座)で初舞台を踏み、以降39歳まで中村錦之助を名乗る。子役時代は才気あふれる演技が注目され、伯父である初代中村吉右衛門の芝居にもたびたび出演。一方、暁星小学校を卒業後は旧制暁星中学校に入学するが、2年で中退。その後は父の芸風を受け継ぎ、『鏡山旧錦絵』のお初役などを好演して若手女形のホープとして期待された。のち立ち役に転向するが、すでに2人の兄(後の二代目中村歌昇、四代目中村時蔵)が歌舞伎俳優となっており、長幼の序が重んじられる歌舞伎界ではなかなか良い役が与えられず、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況であった。1953年(昭和28年)、歌舞伎座舞台『明治零年』で島田魁を演じた際、美空ひばりの母・加藤喜美枝の眼に止まり、当時ひばりの相手役として若手男優を探していた新芸術プロが錦之助を映画界にスカウト。錦之助は転身を考えたが、歌舞伎役者たちからは「映画転出は許さない」と抗議が殺到。当時の梨園では「役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される」という見方が大勢であり、父の時蔵は「中途半端はいけない。映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫った。結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、1953年(昭和28年)11月15日の歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年(昭和29年)2月に映画界に転向。内出好吉監督のひばり映画『ひよどり草紙』の美少年剣士・筧耀之助役で映画デビューを果たす。映画デビュー後、新東宝を経て東映に移籍。同社製作の映画『笛吹童子』が大ヒットし、一躍スターとなった。以降、『里見八犬伝』『新諸国物語 紅孔雀』などの出演作が軒並みヒットし、大川橋蔵や東千代之介らと共に東映時代劇映画の看板スターとなる。その後、オールスター映画『任侠清水港』や内田吐夢監督の大作『大菩薩峠』などでアイドルから演技派俳優へと脱皮を図り、沢島忠監督の『一心太助』シリーズや内田監督の『宮本武蔵』シリーズが当たり役となってからは、『風雲児・織田信長』『親鸞』『瞼の母』などスターの第一線を歩み、東映時代劇の黄金時代を築いた。また、その明るく気さくで豪快な性格から俳優仲間や裏方のスタッフなど、多くの人たちから「錦兄ィ」(きんにい)「錦ちゃん」と慕われ、親しまれた。1956年(昭和31年)、小川家による地方巡業『お祭』『仮名手本忠臣蔵 八段目道行旅路の嫁入』で舞台に復帰。以降、毎年6月に東京・歌舞伎座で定期興行を打っていたが、歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であり、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。1961年(昭和36年)11月27日、女優の有馬稲子と結婚。披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式を挙げる。また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄の日本酒も造られ、さらに父親から900坪の土地を京都に与えられ、そこに150坪の邸宅を構えた。1964年(昭和39年)、今井正監督『武士道残酷物語』でブルーリボン主演男優賞を受賞。一方、舞台にも出演し、歌舞伎座で父・次兄の4代目時蔵の追善興行を行った。1965年(昭和40年)7月23日、結婚から約3年7か月後に東映の大川博社長が二人の離婚を発表。離婚の理由を「有馬が今後も芸の道を進むことを強く希望し、家庭の主婦の務めができなくなるため」としている。同年、東映俳優クラブ組合代表となり、俳優の待遇改善を会社に訴えるが失敗。1966年(昭和41年)、東映内部の労働争議を収拾できなかったこともあり東映を退社。年4本の優先契約に切り替えたのを経て、フリーとなる。同年、NET『暗闇の丑松』でテレビ時代劇ドラマに初登場。一方、私生活では女優の淡路恵子と再婚し、淡路は女優業を引退した。1967年(昭和42年)、自主映画『祇園祭』を制作するため、日本映画復興協会を設立して自ら代表取締役に就任。様々な紆余曲折ののち、京都府・京都市や府民の協力によって完成した同作は大ヒットとなった。1968年(昭和43年)、「中村プロダクション」を設立して本格的にテレビ時代劇の世界に進出。大映、東宝などの映画に出演する一方、『真田幸村』『破れ傘刀舟』『破れ奉行』『破れ新九郎』『子連れ狼』『長崎犯科帳』などのテレビ時代劇を製作・出演した。1971年(昭和46年)10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。もともとは、祖母の小川かめ(嘉女)の生家「小川吉右衛門」家(屋号「萬屋」)にちなんだものであり、小川吉右衛門家は「萬屋」という屋号で代々市村座の芝居茶屋をしていた。翌年には姓名判断によって自身の芸名も中村錦之助から「萬屋 錦之介」と改めた。1978年(昭和53年)、時代劇復興の旗印にした『柳生一族の陰謀』の柳生但馬守役で主演。錦之介が12年ぶりに東映に復帰した当作品は、「夢でござる」という台詞が話題になり、作品も大ヒットとなった。1979年(昭和54年)、テレビ朝日開局20周年記念番組『赤穂浪士』で主演を務め、この作品で、舞台・映画・テレビの全てで内蔵助を演じたことになった。その後も映画、テレビ、舞台と精力的に活動するが、1982年(昭和57年)に中村プロダクションが倒産。莫大な借金を抱えたことから豪邸を売却し、妻の淡路は錦之介を看病しながら生活費を稼ぐため、一時期は六本木でクラブの雇われママも経験した。さらに、6月の歌舞伎公演の最中に倒れて入院。重症筋無力症と診断され、休養を余儀なくされた。8月には胸腺腫摘出手術をし、11月に退院。1983年(昭和58年)、重症筋無力症を克服。テレビドラマ『子連れ狼』で仕事に復帰した。しかし、共演が多く、妻・淡路恵子の親友でもあった女優の甲にしきとの不倫が発覚。経済面等で苦境にあった錦之介を支えていた甲であったが、甲との交際も一因となって錦之介は淡路と別居。甲は淡路恵子の友人であった事や不倫関係への非難から仕事を干される事となるが、事実上この時点で芸能界引退となった。1990年(平成3年)、淡路と離婚した錦之介は、甲にしきと正式に結婚。直後、三男の晃廣が事故死。さらに、難病といわれた右目角膜剥離を発病する。同年、ドラマ『雲霧仁左衛門』に主演。1994年(平成6年)には、22年ぶりにNHK大河ドラマ『花の乱』にレギュラー出演し、山名宗全役を好演するなど、晩年も圧倒的な存在感を持ち続けた。1996年(平成8年)、長年の芸能活動を文化庁から表彰される。同年、咽頭癌を発症し、NHK大河ドラマ『毛利元就』の尼子経久役を降板した。1997年(平成9年)3月10日午後2時41分、千葉県柏市の国立がんセンター東病院で肺炎のため死去。享年64。


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時代劇における銀幕のスターとして、映画黄金期に大活躍した萬屋錦之介。独特のセリフ回し、圧倒的な目力と表現力、そして見事な殺陣で東映時代劇の黄金時代を支え、テレビ時代劇の礎を築いた。12年ぶりの東映出演作となった『柳生一族の陰謀』では、監督の深作欣二が何度となく指摘をするも決して自身の演技スタイルを曲げず、最終的にはその信念に折れ、後に試写を見た深作が「自分が間違っていた」と錦之介に謝罪したというエピソードがある。格調高き芝居でスターに君臨しながらも、豪快な性格と人柄でファンのみならず共演者からも「錦ちゃん」「錦兄ぃ」と慕われた萬屋錦之介の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。広大な墓域に立つ4基のうち、錦之介の墓は3基を一つにまとめた墓の真ん中に建つ。墓には戒名「寶樹院殿萬譽錦童大居士」が彫られ、右側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2020-09-12 20:47 | 俳優・女優 | Comments(0)