人気ブログランキング | 話題のタグを見る

南都雄二(1924~1973)

南都雄二(1924~1973)_f0368298_19331010.jpg

南都 雄二(なんと ゆうじ)

漫才師
1924年(大正13年)~1973年(昭和48年)

1924年(大正13年)、大阪府大阪市に生まれる。本名は、吉村 朝治(よしむら ちょうじ)。1941年(昭和16年)、大阪電機学校を卒業。戦後、大阪中央郵便局の電気係を経て、三遊亭柳枝主宰の柳枝劇団に参加。照明部で裏方をしていたが、その後演者側に回り、看板女優だったミヤコ蝶々の弟子となって「鈴夫」と名乗る。1947年(昭和22年)、柳枝の浮気で離婚した蝶々と結婚。1948年(昭和23年)、柳家三亀松の提案で「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビを結成し、三重県津市の曙座で初舞台を踏む。 1949年(昭和24年)、秋田實の誘いを受け、大阪でラジオ番組を担当。このとき、夢路いとしに相談して南都雄二に改名する。また、この頃に蝶々が当時芸能界で蔓延していたヒロポン(覚醒剤の一種)に手を出し、強度の依存症となったが、雄二が献身的に支えて1ヵ月で克服した。1952年(昭和27年)、秋田實の宝塚新芸座に参加。大阪・道頓堀の中座を拠点に、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、笑福亭松之助らと舞台俳優としても活躍する。1954年(昭和29年)、ABCラジオ『漫才学校』が放送開始。蝶々が校長、雄二が用務員、人気漫才師が生徒に扮して登場するというこの番組で人気を博し、一躍人気者となっていく。1955年(昭和30年)、ABCラジオ『夫婦善哉』がスタート。毎回「蝶々雄二」が素人の夫婦を招いて、その結婚生活を巧みに聞き出すと言う夫婦対談番組はヒット。「蝶々雄二」の人気も定着し、「男前の雄さん」として人気者となる。以後テレビ番組に引っ張りだことなり、スケジュールはいつも満杯状態となる。蝶々とは「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。1958年(昭和33年)、雄二の愛人に妊娠が発覚し、蝶々と離婚。このことは公にせず、『夫婦善哉』の司会など"夫婦コンビ"としての活動を続けた。1963年(昭和38年)にはテレビでも放送が開始。年間平均視聴率34. 3%という驚異的な記録をはじき出す超人気番組となった一方、2人の離婚が週刊誌等で話題になり、『夫婦善哉』の番組内で離婚していたことを告白した。 離婚後は映画俳優としても活躍し、東映や大映の映画に数多く出演。特に勝新太郎主演の『悪名』や『兵隊やくざ』ではシリーズで出演した。私生活では、蝶々と別れた後に結婚した女性とも離婚。次第に持病の糖尿病が悪化し、朝日放送製作のコメディ番組『スチャラカ社員』にも健康上の理由でレギュラー出演出来ず、喫茶店のマスター役で時々出演した。1972年(昭和47年)、糖尿病の悪化に伴い入院。離婚後も公私共に付き合いが続いていた蝶々が暇をみつけては病院に通い、一緒に病院食を食べ、歩けなくなった雄二の車椅子を押すなど、闘病生活を支えた。1973年(昭和48年)3月19日、糖尿病による肝硬変のため死去。享年48。


南都雄二(1924~1973)_f0368298_18044578.jpg

南都雄二(1924~1973)_f0368298_18044507.jpg


ミヤコ蝶々とのコンビで人気を博した南都雄二。関西における夫婦漫才コンビの先駆け的存在であり、離婚後もコンビを解消せず笑いに務めた。私生活では、「キタの雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれるほど夜遊びに明け暮れ、女と酒で身を滅ぼす結果になってしまった。南都雄二の墓は、神奈川県藤沢市の天嶽院にある。墓には「𠮷村家之墓」とあり、右側に墓誌、入口に「故南都雄二之墓処」の碑が建つ。戒名は「寧樂院清朝雄快居士」。

by oku-taka | 2020-08-17 19:28 | 演芸人 | Comments(0)