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桂歌丸(1936~2018)

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桂 歌丸(かつら うたまる)

落語家
1936年(昭和11年)~2018年(平成30年)

1936年(昭和11年)、神奈川県横浜市中区真金町(現在の南区真金町)に生まれる。本名は、椎名 巌(しいな いわお)。3歳で父を結核で亡くし、姑と折り合いが悪かった母が家を出たため、9歳から父方の祖母に育てられる。祖母は横浜真金町で女郎屋「富士楼」を経営。近隣の「ローマ」、「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれるほどの気性の女性だった。戦況が厳しくなり、母方の実家である千葉に疎開している最中に横浜の空襲が起き、それをただただ見つめていたという。この空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。店も繁盛したため戦後の貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが落語家になるきっかけとなり、祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることも考えたが、「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思い、小学校4年生の頃には落語家になると決めていた。小学校の時に自習の時間になると落語を演じ、これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から落語をやってくれないかと要請があったほどであった。その後、横浜市立吉田中学校に在学中に、遊郭内の永真診療所で行われた慰労会の席で、当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて落語家になる決意を完全に固めた。NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し、「一番面倒見の良い人だから」という理由で5代目古今亭今輔を薦められ、中学3年だった1951年(昭和26年)に入門。「古今亭今児」を名乗る。今輔からは「歌舞伎を見ることは落語に活きるから歌舞伎を見ろ」と言われ、中村吉右衛門が出演する歌舞伎をよく見に行った。しかし、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことから破門状態となり、一時はポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職。三遊亭扇馬(後の3代目橘ノ圓)の肝いりで落語界に復帰したが、今輔門下から兄弟子である4代目桂米丸門下へ移籍することを今輔が復帰の条件とし、兄弟子・米丸門下となった。米丸の弟子になって「古今亭今児」から「桂米坊」に改名したが、「額のあたりが広くなってきた」うえに周囲から子供っぽい、と言われたことから、1964年(昭和39年)1月に「桂歌丸」へ再改名。弟子としては、口調の違いがあったことから米丸はほとんど稽古を付けず、歌丸は専ら米丸のラジオ番組の構成などを手掛けていた。しかし、これで放送局関係等にコネクションができたほか、ネタ作りの鍛錬になり、古典の掘り起こしの際の一部改作や独自のくすぐりを入れたりするのに役立った。1965年(昭和40年)、『金曜夜席』にレギュラー出演。『笑点』になった後も引き続き出演していたが、企画および司会の立川談志が「ブラックユーモアを多くしろ」と言ったことも手伝い、一般には受けなかった。そうしたことから、1969年(昭和44年)4月に番組の路線を巡って歌丸を含めて談志に異を唱えたメンバー全員が降板する事態に発展。11月9日に司会が前田武彦に交代すると同時に復帰したが、前田とは「畑が違う」ため番組内でのやり取りがちぐはぐになりがちだったといい、三波伸介が司会になったころからやり取りがスムーズになり、番組の色や歌丸の雰囲気も変わったという。番組中でも人気を博したのが、三遊亭小圓遊との掛け合いであり、小圓遊が歌丸を「ハゲ!」と罵倒すれば、歌丸は「お化け!」とやり返し、どんどんエスカレートするものであった。実際は小圓遊との不仲は番組を盛り上げるための番組内での演出であり、番組を離れての二人は1歳年上の歌丸から小圓遊が古典落語の稽古を付けてもらうなどしており、歌丸によれば「アイツとは打ち合わせをしなくても、アドリブでポンポン出てくるんです」と阿吽の仲であったことを伺わせる発言をしている。歌丸曰く「本業の落語より稼がせてもらった」と語るほどと小圓遊と仕事をする機会も非常に多かったが、小圓遊の急逝後は、三遊亭楽太郎(後の6代目三遊亭円楽)との罵倒合戦がおなじみとなった。6代目円楽との罵倒合戦については、新人時代にネタに悩んでいた楽太郎に対し、「(ネタは)俺のことでいいから」と提案したことに由来しており、小圓遊との罵倒合戦同様、番組上の演出であった。1968年(昭和43年)3月 、真打に昇進。1974年(昭和49年)1月、横浜・三吉演芸場での独演会を開始。この頃から演目を古典落語にシフトする。1979年(昭和54年)8月、4代目三遊亭小圓遊と共に社団法人落語芸術協会理事就任。1989年(平成元年)、文化庁芸術祭賞を受賞。1999年(平成11年)9月、5代目春風亭柳昇の後任で落語芸術協会副会長に就任。2004年(平成16年)2月には、10代目桂文治の後任で落語芸術協会5代目会長に就任した。2005年(平成17年)、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。同年、当時『笑点』司会を務めていた5代目三遊亭圓楽が脳梗塞のため休演。メンバーによる代理大喜利司会を経て、11月27日より歌丸が大喜利司会代理となった。2006年(平成18年)5月14日、『笑点』放送開始40周年記念特別番組を最後に、5代目圓楽が勇退を表明。翌週から歌丸が正式に5代目司会者となった。2007年(平成19年)4月、旭日小綬章を受章。2009年(平成21年)、肺気腫に伴う感染増悪で入院。50年以上に亘る喫煙の結果、慢性閉塞性肺疾患と診断される。19歳の頃から喫煙を始め、1日に50本ものたばこを吸うヘビースモーカーであった。67歳の頃に受けた人間ドックにおいて、医師から「禁煙しないと取り返しのつかないことになる」と言われたが、その後6年間喫煙を続けた。その後、自身と同じ目に遭う人をなくすため、厚生労働省が設置した「慢性閉塞性肺疾患(COPD)の予防・早期発見に関する検討会」の患者代表委員を務めた。このとき、笑点の収録のない間の入院で済んだため番組を休演することはなかったが、2010年(平成22年)に軽い肺炎を起こし入院。愛知県みよし市での地方収録の前日には退院の見通しであったが、大事を取って延期されることになったため、同年3月7日、3月14日放送分の『笑点』は、それぞれ木久扇と好楽が代理司会をする形で休演した。2014年(平成26年)3月29日、慢性閉塞性肺疾患の悪化で入院。5月1日に高座復帰したが、帯状疱疹で再入院し、5月22日に退院。5月31日、復帰後初となる『笑点』の収録を行った。6月23日の紀伊國屋ホールでの公演には車椅子で楽屋入りし、合間に酸素吸入器を付けるなど万全な体調ではなかったが、無事に高座をこなした。2015年(平成27年)6月1日、背部褥瘡の手術のため入院。同月9日に退院していたが、その後、体調不良で入院・休養することになり、『笑点』の収録などの仕事も休む。22日、病名が腸閉塞だったことが判明。7月11日に退院し、8月8日の『笑点』収録で仕事に復帰した。2016年(平成28年)4月30日、『笑点』が放送開始50周年を迎えることを機に、5月22日の放送を以て司会者を勇退することを発表し、番組初の終身名誉司会に就任することとなった。5月25日、文化庁が歌丸の文部科学大臣表彰を発表。31日に文部科学省内で表彰式が行われ、馳浩文部科学大臣から表彰状が贈られた。7月26日、新橋演舞場で開催された「桂歌丸芸歴65周年記念落語会」に出席したが、翌日に腸閉塞治療のため再入院。8月5日に退院したが、12月14日の定期検診で軽度の肺炎と診断されて入院。ドクターストップを振り切って21日に退院し、22日に群馬県みどり市のながめ余興場で行われた「桂歌丸芸歴65周年 冬の特選大落語会」で高座に復帰した。2017年(平成29年)1月1日、新宿末廣亭正月初席初日に出演したが、翌日に肺炎で入院。18日に退院したが、4月16日に再び肺炎のため入院。5月13日に退院。6月3日の春風亭小朝との二人会で復帰の予定だったが、前日になって体調不良のため休演することが決まった。このとき、「左肺炎慢性呼吸不全の急性憎悪」と診断され、再入院。6月14日に退院した。2018年(平成30年)4月19日、国立演芸場にて行われた芸協定席興行で「小間物屋政談」を口演。これが生前最後の高座となった。6月24日、肺炎が重篤化し、横浜市内の病院へ入院。まもなく一時危篤状態に陥りながらも持ち直し、6月26日に病床の歌丸を見舞った三遊亭小遊三に対し落語芸術協会の今後について熱弁をふるった。しかし、7月1日には言葉が出なくなり、7月2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で死去。享年81。


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50年にわたり『笑点』の回答者として、そして司会者として親しまれた桂歌丸。髪ネタ、死人ネタ、妻ネタでお茶の間を笑わし、回答者時代は三遊亭小圓遊or三遊亭楽太郎との罵倒合戦、司会者時代は座布団全員没収を繰り広げるなど、高視聴率番組の人気に貢献し続けた。特に歌丸は、他のレギュラー陣と比べても頭の回転が速く、言葉のチョイスも大変に上手だった。落語家としては、落語への真摯な態度は終生変わらず、常に研究熱心に挑み続けた。それが故か、面白みはあまりに薄かったが、化粧風景をはじめとする女性描写は実に巧みだった。晩年は闘病生活を送りながらの高座であったが、酸素チューブを付けても落語を全うしようとする姿は痛々しくもあったが、プロの神髄をまざまざと見せて頂いた。桂歌丸の墓は、神奈川県横浜市の上大岡霊園にある。墓には「椎名家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「眞藝院釋歌丸」。

by oku-taka | 2020-08-13 00:51 | 演芸人 | Comments(0)