1893年(明治26年)、山梨県甲府市に生まれる。本名は、村岡 はな(むらおか はな)、旧姓は、安中(あんなか)。クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。父は常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める人であり、妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京。南品川で葉茶屋を営むようになる。城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。その頃、社会主義活動に加わった父は、教育の機会均等を訴え、家庭は貧しいながらも、娘の才能を伸ばすべく奔走。1903年(明治36年)に学校創設者との信仰上の繋がりから、10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。在学中、カナダ人のI・S・ブラックモーア宣教師から英語を学び、寄宿舎監の加茂令子から薫陶を受ける。1908年(明治41年)、8歳年上で後に白蓮事件を起したの柳原燁子が編入。互いに「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う親友となった。1909年(明治42年)、柳原の紹介で佐佐木信綱の「竹柏会」に入り、万葉集など日本の古典文学を学ぶ。この頃からペンネームとして「安中 花子」を名乗るようになる。同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家・松村みね子の勧めで童話を執筆。森鷗外が翻訳したアンデルセン『即興詩人』に感動し、翻訳家への夢を抱く。1910年(明治43年)、婦人矯風会を通じて婦人問題に触れ、『婦人新報』などに掲載。編集も担う。1914年(大正3年)、東洋英和女学校高等部を卒業。ブラックモーア校長の配慮で寄宿舎に残り、婦人宣教師に日本語を教えながら、日本基督教婦人矯風会の書記の仕事と英文学の研究を続けた。1915年(大正4年)、実家の家計を助けるため、英語教師として山梨英和女学校に赴任する。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、広岡浅子が主催したキリスト教の夏季講座で、市川房枝と出会う。1916年(大正5年)頃から、童話や少女小説を『少女画報』に執筆。1917年(大正6年)、日本基督教興文協会から初めての本『爐邉』を出版する。これをきっかけに教師を退職し、東京・銀座のキリスト教図書出版社である日本基督教興文教会(後に教文館と合併)に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。印刷を担当していた福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった村岡儆三と出会い、不倫の末に1919年(大正8年)に結婚。1920年(大正9年)には長男が誕生。1923年(大正12年)、関東大震災により福音印刷が倒産し、翻訳や童話の執筆で生活を支える。1924年(大正13年)、「青蘭社書房」を自宅に立ち上げる。1926年(大正15年)、長男を病で失う。悲しみの中、マーク・トウェインの"The Prince and the Pauper"に感銘を受け、子どもも大人も楽しめる家庭文学の翻訳を天職と考え、これを機に英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。1927年(昭和2年)、片山廣子の勧めにより、マーク・トウェインの"The Prince and the Pauper"を『王子と乞食』の邦題で翻訳。1928年(昭和3年)、女性文学者による同人文芸誌『火の鳥』の創刊メンバーになる。1930年(昭和5年)、『パレアナの成長』(後に『パレアナの青春』と改題)を翻訳出版。1932年(昭和7年)から1941年(昭和16年)11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演。「ラジオのおばさん」として人気を博し、毎回の番組を締めくくる「それではごきげんよう!さようなら」というあいさつは、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードをいくつか発売した。第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力。一方、カナダ人宣教師のロレッタ・レナード・ショーから、友情の記念にルーシー・モード・モンゴメリの『アン・オブ・グリン・ゲイブルズ』の原著を託される。灯火管制のもと翻訳を続け、1952年(昭和27年)に『赤毛のアン』として三笠書房より刊行。日本の読者にも広く受け入れられた。村岡はその後、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、モンゴメリの作品翻訳を次々と手がける。また、日本初の家庭図書館「道雄文庫ライブラリー」を自宅に開設。その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。教育改革や福祉事業など社会活動にも広く携わった。1957年(昭和32年)、日本翻訳家協会副会長に就任。1960年(昭和35年)、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受章。1968年(昭和43年)10月25日、夕食中に脳血栓で倒れて死去。享年75。