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吉田茂(1878~1967)

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吉田 茂(よしだ しげる)

政治家
1878年(明治11年)~1967年(昭和42年)

1878年(明治11年)、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京府神田駿河台(後の東京都千代田区)に生まれる。しかし、1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)をしていた吉田健三の養子となる。その後、養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。少年期は、大磯町西小磯で義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後の1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学。1894年(明治27年)4月に卒業すると、同年9月から日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月に高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学し、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学。この頃に外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い、1904年(明治37年)同年9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月に政治科を卒業。同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごす。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には首相であった田中義一や陸軍から止められるほどであった。しかし吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、「満蒙分離論」を支持した。但し、外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任。また、統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた。1931年(昭和6年)1月21日に勲二等瑞宝章、10月31日には勲二等旭日重光章を受章。1936年(昭和11年)、駐イギリス大使に就任。大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)、待命大使となり外交の一線からは退いた。太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。その後、日本の敗色が濃くなると、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし、書生として吉田邸に潜入したスパイ(東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし、「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月には、幣原内閣の外務大臣に就任した。12月、貴族院議員に勅選される。1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請。鳩山はただちに組閣体制に入ったが、5月4日になって突然GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付される。自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし、鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼。吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、「あの殿様じゃ党内が収まらない。君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。ところが元政友会幹事長の松野鶴平が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。しかし、蓋を開けてみると吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、金作りは一切やらない、閣僚の選考に一切の口出しは無用、辞めたくなったらいつでも辞める、という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。しかし、総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかったことから、吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内し、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。総理就任後の吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考。大蔵大臣に石橋湛山を任じ、傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進めた。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈。ここに第1次吉田内閣が発足した。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い、翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)の昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。このとき、GHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。 これを受けて吉田は民主自由党単独で第2次内閣を組織した。その直後に社会党などの野党は内閣不信任を提出。可決されたため、吉田は衆議院を解散した(馴れ合い解散)。第24回衆議院議員総選挙で民主自由党が大勝し、第3次吉田内閣を発足させた。自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があったことから、官僚出身者を中心とした「吉田学校」と呼ばれる集団を形成。先の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅や大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会の下院非米活動委員会をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、1952年(昭和27年)に破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が設置、施行されるきっかけを作る。1951年(昭和26年)9月8日、朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、サンフランシスコ平和条約を締結。また、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せて続投。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)したが、自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織。1953年(昭和28年)2月、吉田の国会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落。改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた。これが戦後唯一の指揮権発動であり、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長の堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を初めて投入した。同年7月1日には保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職。翌日に自由党総裁を辞任した。1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任。1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し、政界を引退した。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中華人民共和国との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた中華民国に、池田勇人首相の特使として訪問。蒋介石と会談した(吉田書簡)。同年、生前叙勲制度の復活により、大勲位菊花大綬章を受章した。その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、1966年(昭和41年)には『ブリタニカ百科事典』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。享年90。葬儀は東京カテドラルで行われ、10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われた。官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ。


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外務大臣を務めた後、内閣総理大臣として戦後の日本政治の礎を築いた吉田茂。外交官時代に身につけた西欧流の哲学で自己主張を通したことから「ワンマン宰相」、ふくよかな風貌と葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」などと呼ばれた。新人の番記者だった三宅久之は、吉田の印象を「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べているが、ユーモアある毒舌と皮肉、新しい人材を大量に立候補させて重要閣僚や党三役に起用して育てる手法は、「憎にくめないオヤジ」という印象を植え付けるに成功し、「歴代最高の総理大臣は?」なるアンケートがあると今なお上位にランクされる。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期から日本を盛り立てた吉田茂の墓は、神奈川県横浜市の久保山墓地にある。当初は、秘書も務めた三女・和子の嫁ぎ先である麻生家の墓所だった青山霊園に葬られたが、2011年(平成23年)年に吉田家の墓がある久保山墓地に改葬された。しかし、吉田家の墓所は新規に墓を造成するほど土地の余裕もないことから、おそらく新規に区画を整地したと思われる。墓には「吉田茂之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。墓所の入口には、先妻である雪子の墓も建つ。戒名は「叡光院殿徹誉明徳素匯大居士」。

by oku-taka | 2020-08-09 12:33 | 政治家 | Comments(0)