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渡辺はま子(1910~1999)

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渡辺 はま子(わたなべ はまこ)

歌手
1910年(明治43年)~1999年(平成11年)

1910年(明治43年)、神奈川県横浜市平沼に生まれる。本名は、加藤 濱子。12歳のとき、ミッション系の捜真女学校に入学。在学中、朝と夕に歌う賛美歌に魅せられ、武蔵野音楽学校(後の武蔵野音楽大学)に入学。立松ふさに師事し、1933年(昭和8年)に同校を卒業。横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、オペラ歌手を志し、同年にポリドールの歌手テストを受け『最上川小唄』を吹き込む。しかし、ポリドールでは結局この1曲のみで終わった。その後、音楽学校在学中に指導を受けた徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから『海鳴る空』でレコードデビュー。1934年(昭和9年)、日比谷公会堂で開催されるビクター歌手総出演のアトラクション『島の娘』に主演のはずであった小林千代子が突然失踪。急遽渡辺が代役に抜擢され、漁師の娘を演じる。以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎や古川ロッパらの相手役を務めている。同年、J.Oスタヂオ映画『百万人の合唱』に出演するために勤務先の横浜高女を休んだことが問題になり、保護者らが学校に抗議し新聞沙汰となる。そのため、1935年(昭和10年)の秋に教職を辞し、ビクターの流行歌手に専念することになる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇『小島の春』のラジオ主題歌『ひとり静』を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡辺は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。1936年(昭和11年)、『忘れちゃいやヨ』を発表。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導されて、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったという。ところが、発売から3ヵ月後、ちょうどヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として『月が鏡であったなら』とタイトルを変更し、歌詞の一部分を削除してレコードを発売した。このヒットにより『ネエ小唄』ブームが起こり、『あゝそれなのに』(美ち奴)、『ふんなのないわ』(ミス・コロムビア)などの類似曲を続々と生み出す結果となった。渡辺も続いて『とんがらかっちゃ駄目よ』をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で1年間の休業をすることになる。1937年(昭和12年)、新興映画「庭の千草」に主演。4月には、コロムビアに移籍。翌年、流行歌の浄化を統制された国民歌謡の『愛国の花』が移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、海軍病院などへの慰問や新聞社主催の皇軍慰問芸術団に加わり、中国にも渡った。曲目も『支那の夜』『広東ブルース』などの大陸を題材にした歌が徐々に増え、人々からは「チャイナ・メロディーの女王」「チャイナソングのおハマさん」と呼ばれ支持された。そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った『何日君再来』(訳詞:長田恒雄)も渡辺が唄い、レコードが日本で発売されることになった。さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優・李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には渡辺がレコーディングを行い、『いとしあの星』『蘇州夜曲』といった曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録した。1941年(昭和16年)には、渡辺が新聞に掲載された記事に感動し、是非とも歌謡曲としてレコード化したいと台湾総督府に申し入れ、レコード・リリースした『サヨンの鐘』もヒット。その後も『風は海から』『花白蘭の歌』など、日本のトップ歌手して活躍。映画においても、東宝『ロッパ歌の都に行く』『ロッパの新婚旅行』『エノケンの孫悟空』などに出演。特に『ロッパの新婚旅行』では声楽家役として出演し、クラシックの歌曲を原語で高らかに歌い上げている。1944(昭和19)年6月、陸軍省報道部より中国戦線への従軍命令を受ける。はま子は“従軍記者”という身分を与えられ、台湾、広東、朝鮮、満州など各地で慰問活動を行った。1945(昭和20)年7月、北京文化協会からの熱心な慰問依頼を受け、家族の制止を振り切り中国に渡る。8月15日の終戦を天津で迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。その間も日本人収容所にいる同胞を慰問し、美しい歌声で慰めることを忘れなかった。1946(昭和21)年5月4日、佐世保港に帰港。帰国後は米軍キャンプの慰問を行う一方、無料奉仕で旧軍人の慰問を開始。戦犯が収容されている巣鴨プリズンにも足を運び、巣鴨プリズンが閉所になる寸前まで慰問を続けた。1947年(昭和22年)、結婚。歌手活動の傍ら横浜市千代崎町に「パイン・クレスト」という花屋を開業するが、1年半で閉店した。歌手としては『雨のオランダ坂』『東京の夜』といったヒット曲を飛ばした。1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、『火の鳥』『桑港のチャイナ街』などのヒット曲を発表。1951年(昭和26年)の第1回紅白歌合戦では、紅組トリを務めた。1952年(昭和27年)1月、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパ市のニュービリビット刑務所に多数の元日本軍兵士が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きかされる。第二次世界大戦後7年も経つのに、なお刑を受刑し続け、中には死刑を待つだけの人達も居ると聞いたはま子は、銀座の鳩居堂から香を同刑務所宛に送付。6月、はま子の自宅に一通の封書が届けられ、その封書の中には、「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書かれた楽譜と短い手紙が入っていた。2人はフィリピン・マニラ市郊外のモンテンルパ市の丘にあった「ニュービリビット刑務所」で、戦争犯罪者としてマニラ軍事裁判で死刑判決を受けていた人物であり、「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲であった。封書を受け取った渡辺は、早速ビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『あゝモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。レコードは7月中旬に発売され、モンテンルパの囚人の減刑釈放を支援するはま子や宇都美清、宮城まり子、灰田勝彦らのコンサートも同じ時期に開催。『あゝモンテンルパの夜は更けて』は20万枚を売り上げるヒットとなった。吹き込み以来、刑務所慰問の決意を固めていたが、国交が無いフィリピン政府に対し、渡航目的が“戦犯慰問”ではなかなか許可が下りず、12月25日に別の目的地の途中でフィリピンに寄る、という体裁をとることでニュービリビット刑務所への訪問を実現させた。慰問のステージは、ドレス姿のはま子が『蘇州夜曲』などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『あゝモンテンルパの夜は更けて』が披露された。この曲を聞いた108名の収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は日本への望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員起立しての大合唱となった。その後、この歌のヒットやはま子を始め、関係者の努力が当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、同曲をおさめたオルゴールを教誨師の加賀尾秀忍から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が実現した。昭和40年代には、東海林太郎らと共に歌手協会の発展に尽力。1973年(昭和48年)、紫綬褒章を受章。暮れには、同年に受章した藤山一郎と共に紅白に特別出演し、『桑港のチャイナ街』を熱唱した。1981年(昭和56年)、勲四等宝冠章を受章。テレビやラジオに活躍を続けたが、1985年(昭和60年)におしどり夫婦として知られた渡辺の夫が亡くなったショックもあり、この頃から認知症を発症。異変に気付いた家族からの忠言を受けて、1989年(平成元年)に引退。引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあり、家族以外の者との会話がほぼ困難になり、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の日、長女がはま子にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気のため表情を変えることのなかったはま子が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。1999年(平成11年)12月31日午後7時15分、脳梗塞のため死去。享年89。死後は遺言に従い親族だけで密葬を済ませ、2000年(平成12年)1月、かつての所属会社であるビクターから、正式にその訃報が明らかにされた。


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異国情緒漂う歌で一世を風靡した渡辺はま子。特に『支那の夜』『何日君再来』『蘇州夜曲』と中国を舞台にした曲を多く歌い、「チャイナメロディーのおはまさん」と呼ばれた。一方、戦前は前線で戦う兵士を励まし、戦後は刑務所に収監された軍人を慰めるなど、渡辺はま子は自他ともに認める「慰問歌手」でもあった。その中でも、フィリピンのモンテンルパの刑務所にいた日本人戦犯との文通で名曲『あゝモンテンルパの夜は更けて』を生み、慰問を経て108人全員の釈放を勝ち取った事は、彼女の歌手人生のハイライトといえよう。晩年、歌番組で『桑港のチャイナ街』を披露した際、1番の歌詞を間違えたどころか2番の入りもミスしてしまい、うろたえる姿が鮮烈な印象として記憶に残っている。その後、徐々にフェードアウトしていき、2000年を迎える前にひっそりと世を去った渡辺はま子。彼女の墓は、神奈川県横浜市の妙香寺にある。墓には先祖の戒名が刻まれ、右側面に墓誌がある。戒名は「寶樹院薫國妙音日濱清大姉」。

by oku-taka | 2020-07-26 11:01 | 音楽家 | Comments(0)