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美空ひばり(1937~1989)

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美空 ひばり(みそら ひばり)

歌手
1937年(昭和12年)~1989年(平成元年)

1937年(昭和12年)、神奈川県横浜市磯子区滝頭に生まれる。本名は、加藤 和枝(かとう かずえ)。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知る。1943年(昭和18年)6月、第二次世界大戦に父が出征となり、その壮行会で父のために歌った『九段の母』に集まった者達が感銘。涙する姿を目の当たりとした母の喜美枝は、娘の歌唱力に人を引き付ける可能性を見出し、地元の横浜近郊から歌の慰問活動を始めるようになった。1945年(昭和20年)、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。1946年(昭和21年)には、横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。翌年、杉田劇場で漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演してから、地方巡業を共にするようになる。1947年(昭和22年)4月28日、高知県に巡業した際、高知県長岡郡大杉村(現在の長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団「新風ショウ」に参加。同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。1948年(昭和23年)2月、神戸松竹劇場への出演に際し、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。5月、ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン・川田義雄(後の川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢される。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼び懐いた。川田一座では、当時のスター歌手だった笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく、“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。1949年(昭和24年)1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る姿が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビューを果たした。続いて、12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット。同主題歌も45万枚売れ、国民的認知度を得た。1950年(昭和25年)、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。以来、『越後獅子の唄』『私は街の子』など大ヒットが続き、また映画や舞台にも数多く出演して人気を確固たるものにした。1951年(昭和26年)5月、「新芸術プロダクション」を設立。代表取締役社長に横浜国際劇場の支配人だった福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。福島はひばりの才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。1952年(昭和27年)、映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。1954年(昭和29年)、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。1955年(昭和30年)、江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演。これを契機に「三人娘」として人気を博し、親交を深める。1957年(昭和32年)1月13日、浅草国際劇場にてショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ、浅草寺病院に緊急搬送される。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ、警察に突き出された。奇跡的に顔に傷は残らなかったことから、その後、歌舞伎座公演にて復帰。一方、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場。出場2回目にして、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務め、当芸能界における黄金期を迎えた。1958年(昭和33年)4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。7月、東映と映画出演の専属契約を結び、『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズなど続々とヒット映画にも恵まれた。特に、多くの時代劇やチャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。1960年(昭和35年)、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。この頃、雑誌が企画した対談の場で小林旭と出会い、やがて交際を始める。小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず、1962年(昭和37年)に結婚した。しかし、母はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである母や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し、小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい願いも叶わなかった。結果、別居を経て、1964年(昭和39年)にわずか2年あまりで離婚。直後に発表した『柔』は、東京オリンピックともあいまって180万枚を売り上げる大ヒットとなり、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。同年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母だった。ひばりは傍らに母を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。1965年(昭和40年)、『柔』で第7回日本レコード大賞を受賞。1966年(昭和41年)、『悲しい酒』が145万枚を売り上げ、1967年(昭和42年)にはポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。1970年(昭和45年)、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会と大トリを担当。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定し、紅白史上初の組司会とトリの兼任となった。1973年(昭和48年)、実弟が起こした不祥事により、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は「家族の絆は大事」だとし、哲也をはずさなかった。この結果、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦が事実上の落選となる。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったが、形上は辞退とした。そのため、以後はNHKからオファーが来ても断り続け、1977年(昭和52年)に当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演して関係を修復した。1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1985年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト / クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年(昭和55年)には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』が地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。しかし、1981年(昭和56年)に母が転移性脳腫瘍により68歳で死去。また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで亡くなり、さらにはひばりの2人の実弟である哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで死去。次々と肉親を亡くすという悲運が続く。ひばりは加藤和也を養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。1985年(昭和60年)5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走った。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵も感じさせない熱唱を見せていた。しかし、1987年(昭和62年)の全国ツアー四国公演の巡業中、足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった。しかし、入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした。闘病の最中にひばりは、マスコミ陣及び大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」等と吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露した。8月3日、無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングより芸能活動の復活を果たす。しかし、病気は決して完治した訳ではなく、肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。1988年(昭和63年)2月、開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、肝機能数値も退院時の60%から低下して20~30%の状態を行き来する状態にあった。体調が思わしくないまま4月11日、東京ドームのこけら落しとなるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せており、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであり、とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にした。東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。6月7日には極秘で再び福岡にて一時入院したが、すぐに仕事を再開。秋元康の企画による『不死鳥パートII』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」との全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながらリリース準備に入り、1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売された。1月15日、『演歌の花道』と『ミュージックフェア』へそれぞれVTRで出演。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、明らかに体調は悪化しており、体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。2月6日、この年の全国ツアー「歌は我が命」福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられており、公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても体調の悪化が明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐひばりは横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だった。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられず、あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットしていた。コンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であり、息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「特発性間質性肺炎」の病状は進行していた。2月8日、済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京。その際、新木場ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に新しく竣工した、横浜アリーナのこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と一方的に譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの!余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と反論する等、度々口喧嘩をし続けていたという。その頃、石井ふく子の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。3月9日、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から数時間にわたり強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりは再入院の決断を下した。3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院。3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメント。これが結果的に歌以外では、美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院。3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナの杮落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された。その後もはっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」等と録音した肉声テープを披露。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージ及び肉声披露となった。6月13日、呼吸困難を起こして重体に陥り、人工呼吸器がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。享年52。6月25日に通夜、翌日26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。なお、ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀には4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・和田アキ子・とんねるずの石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎・雪村いづみ・森昌子・藤井フミヤ・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。没後の7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞が贈られた。


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戦後の歌謡界に「女王」として君臨し、昭和の芸能史に大きな足跡を残した美空ひばり。12歳でデビューし、「天才少女歌手」と謳われて以後、通算1500曲を吹き込み、そのヒット曲の多さは日本の歌手の中でも群を抜いている。また、歌のみならず映画や舞台などでも活躍。特に映画においては150本を超える作品に出演し、戦後を代表する映画女優でもあった。彼女の歌の上手さは誰もが認めるところであり、アンチであっても「歌は上手いけどそれが故につまらない」等と実力だけは評価しているという人が多い。歌謡曲はもちろん、ジャズ・シャンソン・民謡・小唄・端唄・浪曲・都都逸と何でもござれ。作曲家の黛敏郎に勧められてオペラに挑戦した際も、難なく歌いこなしてしまう実力の持ち主だった。まさに「昭和の歌姫」の呼び名に相応しい美空ひばりの墓は、神奈川県横浜市の日野公園墓地にある。訪れた日は偶然にも彼女の祥月命日であり、夕方にもかかわらずファンが入れ代わり立ち代わり墓を訪れ、お参りをするために順番待ちをしていた。墓には「加藤家之墓」とあり、右側に墓誌と、元号が「昭和」から「平成」へ変わったその日にひばりが詠んだ短歌「平成の 我れ 新海に 流れつき 命の歌よ 穏やかに…」が彫られた石碑が建つ。戒名は「茲唱院美空日和清大姉」。

by oku-taka | 2020-07-25 22:39 | 音楽家 | Comments(0)